生 写 朝 顔 話（しょううつしあさがおばなし）
［解 説］文政年間、山田案山子が熊沢蕃山の作と伝えられる『露の干ぬ間』という小唄をもとに想を構え、「生写朝顔日記」と題した浄瑠璃を竹本重太夫の為に創作したが、上演に至らず病没した。それを翌年、近松柳が「徳叟遺稿朝顔日記」という読本にして出したのが非常に人気を呼び、天保三年邪麻田加々子が添削して浄瑠璃に仕立てた。その後嘉永三年萃松園が添補潤色し正本の基礎を作った。この浄瑠璃は、道中の名所が次々と出て来て変化に富み、すれ違いや錯誤・道化・慟哭等様々なドラマの要素が含まれ、『露の干ぬ間』に琴唄を取り入れて音楽的にも特徴のある作品になっている。
［これまで］宮城阿曽次郎は京で芸州岸戸の家老秋月弓之助の娘深雪と恋に落ちるが、鎌倉出張の命を受け、別れに朝顔の歌を扇に書いて与える。急に本国へ引上げる事になった秋月家の一行が明石で風待ちをしている時、深雪は偶然阿曽次郎と再会したが、それも束の間、再び本意ない別れをする（明石の浦船別れの段）。国へ帰った深雪は、父から駒沢次郎左衛門に嫁ぐ様言い渡され、駒沢が実は宮城阿曽次郎である事を知らない為家出する。深雪は人買いの手に落ちそうになるなど様々な困難に遭い、今は盲目となって遠州浜松あたりの乞食小屋に住んでいる。悪者輪抜吉兵衛は、深雪を尋ね出して売り飛ばそうと企んでいる（薬売りの段）。深雪は三味線片手にさまよい歩く中乳母浅香と出会う。浅香は深雪を連れ行こうとした輪抜吉兵衛を討ち果たすが、自身も傷を負って死ぬ。駒沢次郎左衛門は岩代多喜太と共に島田の宿の戎屋に泊る。岩代は悪人の一味で、駒沢を亡き者にしようと萩野祐山に命じてしびれ薬を調合するが、その奸計を宿屋の亭主徳右衛門が発見、笑い薬と取りかえられて失敗する。
宿 屋 の 段
入りにけり。
いづくにも、暫しは旅と綴りけん、昔の人の筆の跡。つれづれわびる仮の宿、夜の襖の隙（すき）もりて、風にまたゝく灯火（ともしび）の影も淋しき奥の間へ、立帰る次郎左衛門、何心なく座をしめて、ふっと目につく衝立（ついたて）の張交（はりま）ぜの歌読み下し、「ハテ心得ぬ。この張交（はりま）ぜにある地紙の歌は、先年山城の宇治にて秋月が娘、深雪が扇に某（それがし）が、又逢ふまでの形見にと、書いて与へし朝顔の歌。その後（のち）はからず明石にて、船繋（ふながか）りせしその砌（みぎり）、琴に合はして深雪が節付け。折節思はぬ互ひの出船（しゅっせん）。飽かぬ別れを悲しみて、女の手づから我が船へ投げ込みしこの扇。しかるに今またこの家（や）にて、思はずもこの張交（はりま）ぜ。ア何者が諷（うた）ひ伝へて、はからず東（あずま）の駅路（うまやじ）に、見るも不思議」と独り言。その折からの忍ばれて、眺め入ったる時しもあれ、襖押し開け徳右衛門、小腰かゞめて入り来たれば、こなたも扇押し隠し、「ヲヽ亭主、先刻はさてさてきつい働き。危うき難を逃れしも全くそちが志。サヽこれへこれへ」「ハヽ冥加（みょうが）に余る御詞。エヽ最前こなたへ参る砌（みぎり）、何か二人がひそひそ咄し。合点行かずと忍び聞けば、しびれ薬を茶に交ぜて、あなた様にさし上げんとの」「アヽコリャ」「サア恐ろしい工（たく）み。エヽ憎さも憎し、すぐに申し上げふと存じたれど。それではどの様な科人（とがにん）が出来やふも知れぬと存じ、ヘヽ幸ひ先日慰みに求めました笑ひ薬、ヤコレ幸ひとしびれ薬と取り替へたを、知らずに呑んださっきの時宜（しぎ）。この後（のち）とても旦那様、御油断はなりませぬぞへ」「ホヽその儀は某（それがし）もとく承知致した。マそれは格別、この衝立（ついたて）にある朝顔の唱歌（しょうが）は何人の手跡、どういふことから御身が手に入りしぞ」「ヱヽヱヽそれでござりますか。その歌について哀れな話。ヱヽ元は中国辺、歴々の娘さうなが、何やら尋ぬる人があるとて親元を家出し、それより方々と流浪して、果てはとうどう目を泣き潰し、後（あと）の月までは浜松辺にその歌を諷ふて袖乞ひ。所に又国元から所縁の女が尋ねて来て逢ひました。ガその女も程なふ病死。それから又一人ぼし、この辺までその歌を諷（うた）ふて歩きました、が何が盲（めくら）でこそあれ器量はよし、声はよし。見る程の者がいぢらしがり、朝顔朝顔といふてその歌を、知らぬ者はござりませぬ。私もあまりの不憫（ふびん）さにこの宿（しゅく）に足を止めさせ、今では宿屋宿屋の御客の伽（とぎ）。何とまあ不幸せな者もあるものでござります」と涙片手の物語も、心にひしびしこたゆる駒沢、『もし言ひ交はせし我が妻か』と、轟く胸を押し鎮め、「ムヽそれはさて哀れな話。身も今宵は何とやら物淋しい。鬱散（うっさん）のためその女を、呼び寄せる事はなるまいか」「イヤモ何がさてお易い事。只今呼び遣はしましょ。御慰みに琴か三味（さみ）」「ムヽ何分よきに頼み入る」と言ふは子細のあるぞとも、知らぬ仏気徳右衛門、尻軽にこそ立って行く。
後（あと）へ相役岩代多喜太、のさのさと座に直り、「ヤ駒沢氏、さぞ御退屈でござらう」「これはこれは岩代氏、殊の外お早い事でござる」と上辺は解けても解けやらぬ、前垂れ掛けの下女お鍋、次の間に手をつかへ、「申し申し只今朝顔殿が見えました。これへ通しましょかいな」「ナニ朝顔とは何者」「アイヤこの道中で琴三味（さみ）を弾き、旅の徒然（とぜん）を慰むる瞽女（ごぜ）とやら。拙者も何か物淋しうござれば、ちと琴でも聞かうと存じ、亭主を頼み呼び寄せましてござる」「アイヤイヤそりゃ止（や）めになされい」「とは又なぜな」「サレバサ。先刻身共が知音（ちいん）たる萩の祐仙、同席いかゞと言はれた貴殿。乞食をば座敷へは通されまいかい」「ハテたかの知れた盲（めくら）女。まんざら怪しい、ナ、ソレ、茶箱も持参致すまい」としっぺい返しにぎっくりと、言句（ごんく）に詰まれどへらず口。「アヽさほど御所望ならば兎（と）も角も。しかし座敷へは叶はぬ、庭へ呼び出し、琴なと三味（さみ）なと弾かし召されて、早くこの場をぼっ帰されよ」と飽くまで意地持つねじけ者。寄らず障らず駒沢が、指図にお鍋は心得て、「朝顔殿召しまする、朝顔殿朝顔殿」と呼び立つる。無残なるかな秋月の娘深雪は身に積もる、歎きの数の重なりて、塒（ねぐら）失ふ目なし鳥。杖柱とも頼みてし、浅香はもろく朝露と、消え残りたる身一つを、さすがに捨ても縁先の、飛石探る足元も、危うき木曽の丸木橋渡り苦しき風情（ふぜい）にて、やうやう座して手をつかへ、「召しましたはこのお座敷でござりますか。拙（つたな）い調べもお笑ひ草、おはもじ様や」と会釈（えしゃく）する、顔も深雪がなれの果て。『不憫（ふびん）の者や』とせぐり来る、涙呑み込み控ゑゐる。岩代はそれとも知らず、「ヤア見苦しいその態（ざま）で、我々が目通りへうせたは、アヽ、アヽ聞き及んだ朝顔めな。ヱヽきりきり立って失せをらう」「アイヤイヤ岩代氏、さう没義道（もぎどう）に仰せられな。この方に呼び寄せたればこそ思ひがけなう、アイヤ思ひがけなう来た者を、叱るは武士の情にあらず。アコリャコリャ女、大儀ながらその朝顔とやらの歌、サヽ早く唄ふて聞かせい」と望む心は千万無量。知らぬ岩代面（つら）膨らし、「サテサテ駒沢氏には、イヤモきつい御執心。アヽコリャコリャ盲（めくら）、何なりとも、ヱヽ唄へ唄へ」「サヽ早く早く」「ハイハイハイ唄ひまするでござります」と、焦がるゝ夫のあるぞとも、知らぬ盲（めくら）の探り手に、恋ゆゑ心筑紫（つくし）琴、誰かは憂きを斗為吟（といきん）の、糸より細き指先にさす爪さへも八ッ橋の、やつれ果てたる身をかこち涙に曇る爪調べ。
「露の干ぬ間の朝顔を、照らす日影のつれなきに、哀れ一村雨のはらはらと降れかし」
「ムヽ夫を慕ふ音律の、我々が身にも思ひやられて、思はずも感涙致した。ノウ岩代殿」「いかさま。琴といひ器量といひ、イヤモなかなか、なかなか感心仕（つかまつ）る。イヤナニ朝顔とやら、そこは定めて冷えるであらう。身共が傍で今一曲、サアサア所望だ所望だ」「アヽイヤイヤ岩代殿、もう赦しておやりなされい」「さりとては駒沢氏、身共が望むを止めさっしゃるは、そりゃ意地の悪いと申すもの」「アヽイヤさうではござらねど、かれも定めて疲れましょうと存じて」「ハハア、しからば曲は止（や）めにして、コリャコリャ女、そちも腹からの非人でもあるまい。身の上話も又一興。話して聞かせ、ヨどうだいどうだい」「ハイ、ハイハイよう問ふて下さります。お詞に甘え、お話し申すも恥づかしながら、元私は中国生まれ、様子あって都の住居（すまい）。一年（ひととせ）宇治の蛍狩りに、焦がれ初（そ）めたる恋人と、語らふ間さへ夏の夜の、短い契りの本意（ほい）ない別れ。所尋ぬる便りさへ思ふに任せぬ国の迎ひ。親々に誘（いざな）はれ、難波（なにわ）の浦を船出して、身を尽くしたる憂き思ひ。泣いて明石の風待ちに、たまたま逢ひは逢ひながら、つれなき嵐に吹き分けられ、国へ帰れば父母の、思ひも寄らぬ夫（つま）定め。立つる操を破らじと、屋敷を抜けて数々の、憂き目をしのぎ都路へ、登って聞けばその人は、東（あずま）の旅と聞く悲しさ。又も都を迷ひ出で、いつかは廻り逢坂（おおさか）の、関路を後（あと）に近江路（おうみじ）や、身のおはりさへ定めなき恋し恋しに目を泣き潰し、物のあいろも水鳥の陸（くが）にさまよふ悲しさは、いつの世いかなる報ひにて重ね重ねの歎きの数。憐れみ給へ」とばかりにて、声を忍びて歎きける。「テサテ哀れな話。しかし男日照りもない世界に、ヱヽ気の狭い女だな。イヤモしゅんだ話で気が滅入った、寝酒でもたべ気を晴らさう。イヤナニ女、暇（いとま）をくれる立ち帰れ」「ハイハイ有難うござります。左様なればお客様、もうお暇申します」「ヲヽ朝顔とやら大儀であった。始めて聞いた身の上話、もしその夫が聞くならば、さぞ満足に思ふであらう。ノウ岩代殿」「左様左様」「ハヽアこれはまあ御親切なお詞。有難う存じます」と杖探り取り立ちながら、虫が知らすか何とやら、耳に残りし情の詞。名残惜しさに泣く泣くも、心は後（あと）に探り行く。
折しも奥より若侍、「最早（もはや）余程深更（しんこう）に及び候（そろ）。御両所共に早お休み」「いかさま、明日は正（しょう）七つの出立。イザ駒沢氏、お休みなされぬか」「アヽイヤ拙者は今暫し用事もござれば、お構ひなくまづお先へ」「左様ならばお先へ臥（ふ）せらう。ドリャ、アヽヽヽアヽ、ヤ御免下されふ」と立ち上がりしが胸に一物（いちもつ）、心を後（あと）に奥の間へ、伴はれてぞ入りにける。行く間遅しと駒沢、手を鳴らして女を呼び、「アアコリャコリャ徳右衛門に急々対面したし。呼んでくりゃれ」と言ひ付けやり、旅硯の墨すり流し以前の扇押し開いて、何か書き付け用意の金子（きんす）薬の包み、取り認（したた）めるそのところへ、廊下伝いに来かゝる亭主、それと見るより手をつかへ、「ヱヽ只今召しましたは何の御用でござります」「ヲヽ徳右衛門。折入って頼みたきは、先刻の朝顔といふ女、今一応呼び寄せてたもるまいか」「ハイ畏まりましてはござりますが、かれはすぐに清水と申す方へ参りました。御用事ならば呼びには遣はしませうが、アヽどうで今夜のお間には」「ムヽハテ残念至極。身は正（しょう）七つの出立。マよくよく縁の」「ヱヽ何と御意なされます」「アイヤナニ徳右衛門、今の女に謝礼の為、この三品（みしな）をその方にしっかりと預け置く間、朝顔が参らば渡してくりゃれ」「ハイハイハイ。ヲヽコリャマア夥（おびただ）しいお金。その上結構な女（おなご）扇、お薬までも」「ヲヽサその薬は大明国（たいみんこく）秘法の目薬。甲子（きのえね）の年に出生（しゅっしょう）せし男子（なんし）の生血（せいけつ）を取って服すれば、いかなる眼病も即座に平癒。朝顔に渡してくりゃれ」「これはこれは何から何までお心を込められた下され物。参り次第相渡し、悦ばしませう」と受け取る折しも時計の七つ。「ムヽアリャもう七つの刻限」と数ふるうちに岩代多喜太、装束改め旅出立（でだち）、同勢引き連れ立ち出でて、「イザ駒沢氏、出立（しゅったつ）仕（つかまつ）らう」と勧むる詞に次郎左衛門、衣服繕ひ立ち出づれば、見送る亭主が暇乞ひ。心そぐはぬ駒沢岩代打ち連れてこそ出でて行く。
後（あと）見送って徳右衛門、「アヽ同じ侍でも黒白（こくびゃく）の違ひ。意地くね悪い岩代に引きかへ、情深い駒沢殿、アヽあっぱれの侍ぢゃなあ。それはさうと朝顔に、今夜の礼にはそぐはぬ下され物。ハア何ぞ様子のありそな事」と思案の折から、深雪は何か気にかゝり、座敷仕舞ふてうとうとと、又立ち帰る切戸の内。徳右衛門目早に見て、「ヲヽ朝顔か遅かった。宵のお客様がま一度呼びにやってくれいとおっしゃったれど、清水へ往（い）たと聞いたゆゑお断り申したれば、今の先お立ちなされた。しかしまあ悦びゃ。大枚のお金と扇、又結構な目薬まで、我が身にやってくれいと、ソヽソレお預けなされたわいの」「これはマア冥加（みょうが）に余る事、お礼申さいで残り多い。ガ申し申し旦那様、この扇に何ぞ書いてはござりませぬか。ちょっと見て下さりませ」「ヲヽドレドレ。ヱヽ金地に一輪朝顔。露の干ぬ間が書いてある。裏に、宮城阿曽次郎事駒沢次郎左衛門と書いてあるぞや」「エエ、アノ宮城阿曽次郎事駒沢次郎左衛門とその扇に」「オイノ」「ヱヽ、ハアヽはっ」とばかりに俄の仰天。「ヱヽ知らなんだ知らなんだ、知らなんだわいなあ。道理でよう似た声と思ふたが、そんならやっぱり阿曽次郎様であったか。申し申し旦那様、そのお客様はいつお立ちなされたえ」「ヲヽ今の先の事ぢゃ。ガ我が身は又お馴染みか」「ヱヽ馴染みどころか、年月尋ぬる夫でござんすわいな。かういふうちも心がせく。追っ付いてたった一言」と行かんとするを引き止どめ、「アヽコレコレコレマアマアマア待ちゃ待ちゃ。ヱヽ折悪う雨も降り出し、この暗いに一人は危ない危ない」「イエイエイエたとへ死んでも厭ひはせぬ」「サヽヽヽそれはさうでも盲（めくら）の身で危ない危ない」「イエイエ放して下さんせ」「これはしたり危ないと言ふに」「イエイエ放して放して」と突き退け刎（は）ね退け、杖を力に降る雨も、いっかな厭はぬ女の念力、後（あと）を慕うて
大 井 川 の 段
追ふて行く。
名に高き街道一の大井川、しのを乱して降る雨に打ち交じりなるはたゝがみ。漲（みなぎ）り落つる水音は物凄くも又凄（すさ）まじき。夫を慕ふ念力に道の難所も見へぬ目も、厭はぬ深雪がこけつ転（まろ）びつ、漸うこゝに川の傍。「ノウ川越（かわごし）達、駒沢次郎左衛門様と云ふお侍、もふ川をお越しなされたかまだか聞かして聞かして」と云ふ声さへも息切れの、声に川越（かわごし）口々に、「ヲヽその侍は今の先渡った、ガ俄の大水で川が止まった。川止め川止め」「ヤアナニ川が止まった。ハヽア悲しや」と、張り詰めし力も落ちて伏し転（まろ）び、前後不覚に泣きけるが。又起き上がって見へぬ目に、空を睨（にら）んで、「天道様、エヽ聞こへませぬ聞こへませぬ聞こへませぬわいな。この年月の艱難（かんなん）辛苦も、どふぞ最（も）一度その人に逢はしてたべと片時も、祈らぬ間とてもない物を、けふに限ってこの大雨。川止めとは川止めとは、エヽ何事ぞいの。思へばこの身は先の世で、いかなる事の罪せしぞ、扠（さて）も扠（さて）も味気なや。焦がれ焦がれたその人に逢ふても知らぬ盲目の、この目はいかなる悪業ぞや。夫の跡を恋ひ慕ひ、石になったる松浦潟（まつらがた）、ひれふる山の悲しみも、身に比べては数ならず、三千世界を尋ねてもこんな因果が又と世に、あるべきかは」と口説き立て、拳を握り身を震はし、流涕（りゅうてい）焦がれ歎きしは、余所（よそ）の見る目も哀れなり。
やゝあって起き直り、「ヲヽそふじゃそふじゃ。とても添はれぬ身の業因。この川水の増さりしは、所詮死ねとの事なるべし。未来で添ふを楽しみに、こゝを三途の岸と定め、弘誓（ぐぜい）の船に法（のり）の道、急がんもの」と泣く泣くも、夫を恋し小石の数、袖や袂に拾ひ込み、「南無阿弥陀仏」の声諸共、既に飛ばんずその所へ、「ヤレお待ちなされ深雪様」「イヤイヤ誰かは知らねど放して放して」「マアマア待たっしゃれ朝顔殿、コレ関助殿とやらが見へたぞや」「ハヽア下郎めでごはります。先づ先づ気をお静めなされませ」と無理に手を取り抱き退くれば、「ヤアそふ云ふ声は関助か、エヽ遅かった遅かった遅かったわいの。この年月艱難（かんなん）して、尋ね焦がれた阿曽次郎様に、折角（せっかく）逢ふたに盲（めくら）の悲しさ、それとも知らず別れたれど、どふやらお声が気にかゝり、戻って聞けばやっぱりその人。おのれやれ追っ付かふと、後（あと）追ふて来たればこの川止め。関助、どふせふどふせふどふせふぞいの」「ヲヽお道理だお道理だ、御尤もでごはりますはいの。何が拙者めも、あなた様の行方（ゆくえ）を尋ね廻る内、一昨日（おととい）の夜の夢に浅香殿に廻り逢ひ、即ちあなた様は嶋田の宿（しゅく）、戎屋（えびすや）徳右衛門方にござると云はしゃると思へば目が覚め、シヤ何でも不思議と、夜を日に継いで参った甲斐あって、すっての事にあぶない所を、ヤレヤレ嬉しや嬉しや嬉しやな。下郎めがお目にかゝる上は、お気遣ひなされますな、駒沢様に添はせ申す。しかし浅香殿は坂東巡礼となって、東海道へ尋ねて見へる筈（はず）。ガお逢ひなされしかな」「サレバイノ、その浅香に後（あと）の月浜松で廻り逢ふたが、その夜悪者に出逢ひ数カ所の手疵。死ぬる今はにわしを呼び、嶋田の宿（しゅく）には私が産みの親、古部（ふるべ）三郎兵衛と云うふ人あり。この守り刀を証拠に尋ね行き、秋月弓之助が娘と名乗って逢へと云ひ教へ、可愛や終（つい）に死にゃったはいの」「ムヽ、スリャ浅香殿には最期とや、ホイ」はっとばかり驚く内、始終聞き居る徳右衛門、「ムヽそんならお前は秋月弓之助様の御息女様、又浅香といふは我が娘であったか。ムン」と心にうなづき件（くだん）の短刀、抜く手も見せず腹へぐっと突き立つれば、「コハ何事」と驚く両人、「ホヽ御不審は尤も、ガ先づ先づ一通り聞いてたべ。私事はそのお尋ねなさるゝ古部（ふるべ）三郎兵衛と申す者。即ちあなた様の祖父、秋月兵部（ひょうぶ）様には三代相恩。若気の謝り奥女中と忍び逢ひ、お手討ちになる所を弓之助様に助けられ、女諸共国を立ち退き、産み落とせしは女の子。貧苦の中に育つる内、二ツの年に母は病死。男の手で育てもならず、伯母が方へこの短刀を添へて養子にやりしが、廻り廻りて思はずも、親が命を助けられし秋月様へ御奉公。死んでも忠義を忘れず導きおったか、ヲヽ出かしおったな。又最前駒沢様の仰せには、唐土（もろこし）伝来の目薬、甲子（きのえね）の年の男子（なんし）の生血（せいけつ）にて服する時はいかなる眼病も即座に平癒との事。即ち某（それがし）甲子（きのえね）の生まれなれば、我が血汐を以て件（くだん）の薬に調合し、早くあなたへ、サヽ早く早く」「実（げ）にも」と関助用意の水呑み取り出だし、手負ひの血汐受け止め受け止め、泣き入る深雪が懐の妙薬取り出し差し寄すれば、深雪受け取り、『我が夫（つま）の情に余る賜物（たまもの）』と押し戴き押し戴き、只一口に呑み干せば、不思議や忽（たちま）ち両眼開き、ありあり辺りの見へすくにぞ、深雪が嬉しさ関助も悦び合ふぞ道理なる。「アヽ嬉しや。最早この世に望みなし。いづれもさらば」と刀引き廻し、笛のくさりを刎ね切って、名のみ流るゝ大井川、水の泡とぞなりにける。後（あと）や枕に取り縋り、わっとばかりに泣く涙。露の干ぬ間の朝顔も、山田の恵みいや増さり、重れる朝顔物語り、末の世迄も著し。
［このあと］元の姿になった深雪は改めて駒沢と夫婦の盃の大団円となる。
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