須磨浦

一　谷　　軍　記（いちのたにふたばぐんき）

［解　　説］宝暦元年（一七五一）十二月豊竹座初演。並木宗輔（千柳）・浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三らの合作で、「平家物語」・「源平盛衰記」から敦盛最期と忠度都落ちを中心に脚色したもの。熊谷が義経の指図により、我が子の小次郎を敦盛の身代りとして首を討つという封建社会の悲劇が聴く人の胸を打つ。

［これまで］義経は熊谷次郎直実に弁慶筆の「一枝を切らば一指を切るべし」の制札を渡して、須磨の陣所の若木の桜を守るよう命じ、熊谷は一子小次郎と共に出陣する。生田の森の平家の陣所へ小次郎と平山武者所が先陣争いをし、後から駆け付けた熊谷が負傷した小次郎を我が陣屋へ連れ帰ったあとに、陣内から平家の大将敦盛が現れ、逃げる平山を追って行く。

須　磨　浦（すまのうら）の段

　　追うて行く。

　磯端（いそばた）をうろうろと、袖は涙の玉織姫、夫を尋ね朧夜（おぼろよ）に、心細身の一腰かい込み、あなたへ走りこなたへ迷ひ、須磨の浦辺をそこよこゝよと、尋ねさまよひ給ひたり。「敦盛様ィのふ、太夫様ィのふ。この暗いのにたゞお一人。あぶないわいのふ、お帰り」と、云へどあてども波近き。早しのゝめに人顔も、ほのかに見へし山道より、平山の武者所、やうやう逃げ延び須磨の浦、駒の足を休めんと、暫く息をつぐ中に、玉織姫と見るよりも、やがて馬より飛んで下り、つかつかと立ち寄って、「コレお娘（むす）。テモよい所で出合ひました。いつぞや京で見初（そ）めてから、目の先にちらつく様で、起きても寝ても忘られず、思ひ余ってそさまの親御、時忠殿へ云ふたれば、『やらふ』とあるを幸ひに、迎ひにやった玄蕃（げんば）を殺し、よふ待ちぼうけにめさったなふ。サア、乗物の代はりこの馬に乗せ、連れて往（い）んで女房にする」と、引っ立つれば振り放し、「ヱヽ、あたいやらしい。親が赦そがどふせうが、敦盛様とは二世の約束。かふいふ内にもお行衛（ゆくえ）を、尋ね逢ふて死なば一所。邪魔しやんな」と駈け行くをひん抱（だか）へ、「ムヽ、敦盛を尋ねるのか。コレ、何ぼ尋ねても敦盛の行衛（ゆくえ）、水の底まで在（あ）り所（しょ）は知れぬ」「そりゃ何故（なぜ）に」「ムヽ、敦盛はたった今、我が手にかけて討ってしまふた」「ヤア何と、敦盛様を討ったとや。ハアはっ」とばかりにどうど伏し、人目もわかず声を上げ、歎き沈ませ給ひしが、「夫の敵（かたき）」と身構へし切り付くる、腕首つかんで、「ヤア、こいつ手向かひか。モウ了簡ならぬ、と云ふところを云はぬ。テモこの手の柔らかさ、尋常な事わいな。モどふもどふも、ヱヽ、武者ぶるひのする程どふもならぬ。コレ、悪い合点ぢゃ。とんと心を入れ替へ、おれに随ふ気にならしゃれ。女房に持って可愛がる。サヽ、サヽヽヽどうかどうか」と猫なで声。姫は怒りの涙交じり、「コリャ、世が世ならそちが様なむくつけな侍は、傍辺りへも寄せ付けぬに、随への靡（なび）けのとは穢（けが）らはしい、忌（い）まはしい。ヱヽ、腹立ちや」と又切り付くる、腕首捻ぢ上げ取って押さへ、「サア、女房になるか、ならぬか。いやなら殺すが何と何と」と、太刀抜き持って傍若無人。「ヲヽ殺さば殺せ、畜生め。ヱヽ、誰ぞ強い人が来て、こいつを切ってくれぬか」と、もだへ給ふぞいたはしゝ。強気（ごうき）の平山むっとせき上げ、「ヤア、憎い女め。靡（なび）かぬ上に色々の雑言（ぞうごん）。恥面かゝされ堪忍ならず。生け置いて人の花と眺めさすもむやくしい。思ひ知れ」と持ったる刀、胸板ぐっと突き通せば、「あっ」と一声苦しむ折から、後ろの方に鯨波（ときのこえ）。『すは又我を追ひ来るや』と、駒を引き寄せ飛び乗って逸散（いっさん）に、その場はるかに

（落ち失せけれ。）

［このあと］一方敦盛は平山を見失い、沖の味方の船へと馬を波間に乗り入れるが、熊谷が勝負を挑んで呼び返す。熊谷は苦も無く敦盛を組み敷くが、わが子の小次郎と丁度同じ年恰好であるのを討ち兼ねて助けようとする。それを平山に見咎められた熊谷は進退極ってついに首を討つ。瀕死の玉織姫がはい寄って、見えぬ目で敦盛の首と名残を惜しみつつ息絶える。熊谷は無常を悟り、敦盛の首を抱いて帰る（組討の段）。