尼ヶ崎

絵　　本　　太　　功　　記（えほんたいこうき）

［解　　　説］　寛政十一年（一七九九年）七月若太夫芝居初演。近松柳・近松湖水軒・近松千葉軒の合作。明智光秀のいわゆる三日天下を題材にしており、討死迄の十三日間を十三段に書いている。この十段目は、主君を殺した光秀を死をもって諌める母さつきと、悪逆非道の主君は討つのが当然とする光秀との葛藤を描き、子の十次郎が死を目前にして初菊との真実の人間らしい感情に目覚める有様に、さすがの光秀が大泣きする大落しがクライマックスである。

［あらすじ］　武智(明智)光秀は「安土の鬼」と人々に恐れられている主君・小田春永（織田信長）の行過ぎた行動を日頃から諌めていた。それに対して春永は光秀に反逆の企てがあるのではないかと疑っていた。折から勅使饗応の相役になった森蘭丸をして光秀の眉間を打たせ、無念に耐えながら尚も諌める光秀を子の十次郎共々追放する（朔日）。光秀は本能寺に宿泊中の春永に謀叛を起す。春永は中国攻めに出ている真柴久吉（羽柴秀吉）に後を託し非業の死を遂げる（二日目）。久吉は備中高松城を水攻めに落そうとしていたが、和議を整え主君の弔い合戦に出発する（五日目）。光秀の母さつきは主君を討ったわが子の傍には居られぬと廻国修業に出た。光秀は「順逆二門なし」と書き自害しようとするが様子を窺っていた四王天田島頭と十次郎に諌められ、久吉の軍勢と戦う決心をする（六日目）。四王天田島頭は百姓姿で久吉に近付き討とうとするが見破られ、加藤正清（加藤清正）に討たれる（九日目）。さつきの閑居へ光秀の妻操と十次郎の許婚の初菊が機嫌伺いに訪ねているところへ、僧形に身をやつした久吉が一夜の宿を乞いに来た。そこへ十次郎が出陣の願いに来て、初菊と祝言の盃を済ませ戦場へ向う。最前から様子を窺っていた光秀が竹薮から現われ、久吉と見た僧を刺そうとするが、意外にも母を刺してしまう。重傷を負った十次郎が戦場から戻って敗戦の様子を語り、初菊と名残を惜しみながら息絶える。この間にも光秀は敵に囲まれ、久吉と他日の決戦を約し別れる（十日目）。

　この前夕顔棚の段

尼ヶ崎（あまがさき）の段

一間へ入りにけり。残る莟の花一つ、水上げかねし風情にて、思案投げ首萎るゝばかり、漸う涙押し止め、「母様にも婆様にも、これ今生の暇（いとま）乞ひ。この身の願ひ叶うたれば、思ひ置くことさらになし。十八年がその間、御恩は海山代へがたし。討死するは武士（もののふ）の、習ひと思し召し分けられて、先立つ不孝は許してたべ。二つにはまた初菊殿。まだ祝言の盃を、せぬが互ひの身の幸せ。わしがことは思ひ切り、他家へ縁付きして下され。討死と聞くならば、さこそ歎かん不憫や」と、孝と恋との思ひの海。隔つ一間に初菊が、立ち聞く涙転（まろ）び出で、「わっ」とばかりに泣き出だせば、はっと驚き口に手を当て、「アヽコレ声が高い、初菊殿。さては様子を」「アイ、残らず聞いておりました。夫の討死遊ばすを、妻が知らいで何とせう。二世も三世も女夫じゃと、思ふてゐるに情ない。盃せぬが幸せとは、あんまり聞こえぬ光義様。祝言さへも済まぬうち、討死とは曲がない。わしゃ何ぼうでも殺しはせぬ。思ひ止まって給はれ」と縋り歎けば、「アヽコレ、こなたも武士の娘じゃないか。十次郎が討死はかねての覚悟。婆様に泣顔見せ、もし悟られたら、未来永々縁切るぞや」「ヱヽ」「サ、とかう云ふうち時刻が延びる。その鎧櫃こゝへ、こゝへ」「アイ、アイ」「サ早う。時延ぶる程不覚のもと。ヱヽ聞き分けない」と叱られて、「いとしい夫が討死の、門出の物具（もののぐ）付けるのが、どう急がるゝものぞいの」と、泣く泣く取り出す緋縅の、鎧の袖に降りかゝる、雨か涙の母親は、白木に土器（かわらけ）白髪の婆、長柄（ながえ）の銚子蝶花形。門出を祝ふ熨斗（のし）昆布、結ぶは親と小手脛当（すねあて）、六具（りくぐ）固むる三々九度。この世の縁や割小札（わりこざね）、猪首（いくび）に着なす鍬形（くわがた）の、あたりまばゆき出で立ちは、爽やかなりしその骨柄。「ヲヽあっぱれ武者ぶり勇ましゝ。功名手柄を見るやうな。祝言と出陣を一緒の盃、サアサア早う。ヲヽめでたい、ホヽめでたい嫁御寮」と、悦ぶ程なほいや増す名残り。「こんな殿御を持ちながら、これが別れの盃か」と、悲しさ隠す笑ひ顔。「随分お手柄功名して、せめて今宵凱陣を」と、後は得云はず喰ひしばる。胸は八千代の玉椿、散りてはかなき心根を、察しやったる十次郎、包む涙の忍びの緒、絞りかねたるばかりなり。哀れをこゝに吹き送る、風が持て来る攻め太鼓。気を取り直し、突っ立ち上がり、「いずれもさらば」と云ひ捨てゝ、思ひ切ったる鎧の袖、行き方知らずなりにけり。「ノウ悲しや」と泣き入る初菊、母も操も顔見合はせ、「婆様」「嫁女、可愛やあったら武士（もののふ）を、むざむざ殺しにやりました。ノウ初菊、十次郎が討死の出陣とは知りながら、なまなか止めて主殺しの、憂き死恥をさらさうより、健気（けなげ）な討死させんため、祝言によそへて盃をさしたのは、暇（いとま）乞ひやら二つには、心残りのないやうと、思ひ余った三々九度。婆が心の切なさを、推量しや」とばかりにて、初めて明かす老母の節義。聞く初菊も母親も、一度にどうど伏し転（まろ）び、前後不覚に泣き叫ぶ。襖押し開け何気なう、つかつか出づる以前の旅僧。「コレコレかみ様、風呂の湯が沸きました。どなたぞお入りなされませ」と、云ふにこなたは泣顔隠し、「ヲヽそれはご苦労。さりながら、年寄りに新（さら）湯は毒。あとは若い女（おなご）ども。マアお先へご出家から」「いかさま、湯の辞儀は水とやら。さやうならば御遠慮なし、お先へ参る」と立ち上がれば、三人は涙押し包み、奥の仏間と湯殿口、入るや月漏る片庇（ひさし）。

こゝに刈り取る真柴垣、夕顔棚のこなたより、現れ出でたる武智光秀。「必定、久吉このうちに忍びゐるこそ究竟一（くっきょういち）。たゞ一討ち」と気は張り弓、心は弥猛（やだけ）藪垣の、見越しの竹をひっそぎ鑓。『小田の蛙（かわず）の啼く音をば、止（とど）めて敵に悟られじ』と、差し足抜き足窺ひ寄り、聞こゆる物音、『心得たり』と、突っ込む手練の鑓先に、「わっ」と魂消（たまぎ）る女の泣き声、『合点行かず』と引き出す手負ひ。真柴にあらで真実の、母のさつきが七転八倒。「ヤア、こは母人か。し為（な）したり。残念至極」とばかりにて、さすがの武智も仰天し、たゞ呆然たるばかりなり。声聞き付けて駈け出る操、初菊もろとも走り出で、「ノウ母様か情ない。この有様は何事」と縋り歎けば、目を見開き、「嘆くまい嘆くまい。内大臣春長といふ主君を害せし武智が一類、かくなり果つるは理の当然。系図正しき我が家を、逆賊非道に名を穢す、不孝者とも悪人とも、たとへがたなき人非人。不義の富貴（ふっき）は浮かべる雲。主君を討って功名顔。天子将軍になったとて、野末の小屋の非人にも、劣りしとは知らざるか。主に背かず親に仕へ、仁義忠孝の道さへ立たば、物相飯（もっそうはん）の切米（きりまい）も、百万石に勝るぞや。おのれが心たゞ一つで、印は目前これを見よ。武士（もののふ）の命を絶つ、刃（やいば）も多いにこのやうな、ひっそぎ竹の猪（しし）突き鑓。主を殺した天罰の報ひは親にもこの通り」と、鑓の穂先に手をかけて、抉り苦しむ気丈の手負ひ。妻は涙にむせ返り、「コレ見給へ光秀殿。戦の門出にくれぐれも、お諌め申したその時に、思ひ止まって給はらば、かうした歎きはあるまいに、知らぬ事とは云ひながら、現在母御を手にかけて、殺すといふは何事ぞ。すめて母御の御最期に、善心に立ち返ると、たった一言聞かしてたべ。拝むわいの」と手を合はし、諌めつ泣いつ一筋に、夫を思ふ恨み泣き。操の鑑曇りなき、涙に誠表せり。光秀は声荒らげ、「ヤア猪口才（ちょこざい）な諌言立て。無益（むやく）の舌の根動かすな。遺恨を重ぬる小田春長、勿論三代相恩の主君でなく、我が諌めを用ひずして、神社仏閣を破却し、悪逆日々に増長すれば、武門の習ひ天下の為。討ち取ったるは我が器量。武王は殷（いん）の紂王（ちゅうおう）を討つ。北條義時は帝を流し奉る。和漢ともに、無道の君を弑するは、民を休むる英傑の志。女童の知る事ならず。退（すさ）りをらう」と光秀が、一心変ぜぬ勇気の眼色、取り付く島もなかりけり。

折しも聞こゆる陣太鼓、耳を貫く金鼓（きんこ）の響き。『あはや』と見やる表口。数ヶ所の手疵に血は滝津瀬、刀を杖によろほびよろぼひ、立ち帰ったる武智が一子、庭先に大息つぎ、「親人、親人これにおはするや」と、云ふも苦しき断末魔。見るに驚く母親より、娘は傍に走り寄り、「ノウ痛はしや十次郎様。婆様といひお前までこの有様は情けない。お心確かに持ってたべ。やいのやいの」と取り付いて、介抱如才泣くばかり。光秀わざと声荒らげ、「ヤア不覚なり十次郎。仔細は何と、様子は如何に。具（つぶさ）に語れ」と呼ばはれば、「はっ」と心を取り直し、「親人の指図に任せ手勢選（すぐ）って三千余騎、浜手の方に陣所を固め、『今や帰国』と相待つところに、敵はそれとも白浪の、艪を押し切って陸（くが）路に漕ぎ付け、『おひおひ都に馳せ上る、真柴の軍勢ござんなれ』と、鬨をつくって味方の軍兵縦横無尽に薙ぎ立つれば、不意を打たれて敵は敗亡、うろたへ騒ぐを追っ立て、追ひ詰め、こゝを先途と戦ふうち、後ろの方より大音声（だいおんじょう）、「真柴筑前守久吉の家臣、加藤正清これにあり。逆賊武智が小童（こわっぱ）ども、目に物見せてくれんず」と、云ふより早く太刀抜きかざし、四角八面に切り立てられ、瞬く間に味方の軍卒残らず討死仕り、無念ながらもたゞ一騎、立ち帰って候」と息つぎあへず物語れば、光秀怒りの髪逆立ち、「ヤア云ひ甲斐なき味方の奴ばら。シテ、四方天但馬守は」「さん候四方天は、目指すは久吉一人と、昨朝よりの一騎駈け。乱軍なれば生死（しょうじ）の程も確かにそれと承らず。親人の御身の上心にかゝり候故、未練にも敵を切り抜け、これまで落ち延び帰りしぞや。このところに御座あっては危うし危うし。一時も早く本国へ引き取り給へ、サ早く早く」と、深手を屈せず父親を、気遣ふ孫の孝行心、聞くに老母はせきかねて、「アレ、あれを聞きゃ嫁女。その身の手疵は苦にもせず、極悪人の伜めを、大事に思ふ孫が孝心。ヤイ光秀、子は不憫にないか、可愛いとは思はぬかやい。おのれが心たゞ一つで、いとし可愛の初（うい）孫を、忠と義心に健気なる、討死でもさすことか、逆賊無道に名を穢し、殺すは何の因果ぞ」と、せぐり苦しき老ひの身の、声聞き付けて十次郎、「ヤア、そんなら婆様には御生害遊ばしたか。今生のお暇（いとま）乞ひ、ま一度お顔が見たけれど、もう目が見えぬ。父上、母様、初菊殿。名残り惜しや」と手を取って、妹背の別れ愛着の道に引かるゝいぢらしさ。母は涙に正体なく、「討死するも武士（もののふ）の習ひと云へど情けない。十八年の春秋を刃（やいば）の中に人となり、いつ楽しみの暇もなう弓矢の道に日をゆだね、今朝の門出のその時にも、『母様、今日の初陣に、あっぱれ功名手柄して、父上や婆様に誉めらるゝのが楽しみ』と、にっと笑ふたその顔が、わしゃ幻にちらついて、得忘れぬ」と口説きたて、口説き立つれば初菊も、「ほんに思へばこの身ほど、はかない者が世にあらうか。とけて逢ふ夜の後朝（きぬぎぬ）も、永き名残りの許婚（いいなずけ）。二世を結ぶの枕さへ交はす間もなうこのやうな、悲しい別れをすることは、どうした罪か情けない。私も一緒に殺してたべ。死にたいわいの」と身をもだえ、互ひに手に手を取り交はし、名残り涙の暇（いとま）乞ひ。見るに目もくれ心消え、母も老母も声を上げ、「わっ」とばかりに取り乱せば、さすが勇気の光秀も、親の慈悲心、子故の闇、輪廻（りんね）の絆（きずな）に締め付けられ、堪えかねてはらはらはら、雨か涙の汐境、浪立ち騒ぐ如くなり。

またも聞こゆる人馬の物音、矢叫びの声かまびすく、手に取る如く聞こゆれば、光秀聞くより突っ立ち上がり、「アノ物音は敵か味方か、勝利如何に」と庭先の、拗（す）ね木の松が枝踏みしめ踏みしめよぢ登り、眼下の村手をきっと見下し、「和田の岬の弓手より、おひおひ続く数多（あまた）の兵船（ひょうせん）。間近く立ったる魚鱗（ぎょりん）の備へ、千成瓢（せんなりひさご）の馬印は、疑ひもなき真柴久吉。風を喰らってこの家（や）を逃げ延び、手勢引き具し光秀を、討っ取る術（てだて）と覚えたり」と云ふより早くひらりと飛び下り、「草履掴みの猿面冠者（さるめんかじゃ）、イデ一（ひと）ひしぎ」と身繕ひ、勢い込んで駈け出だせば、「ヤアヤア武智光秀暫く待て。真柴筑前守久吉、対面せん」と呼ばはって、三衣（さんえ）に替はる陣羽織、小手脛当（すねあて）も優美の骨柄、悠然として立ち出づれば、光秀見るより仰天し、駈け戻ってはったと睨み、「ヤア珍しゝ真柴久吉。武智十兵衛（じゅうびょうえ）光秀が、この世の引導渡してくれん。観念せよ」と詰め寄る光秀。中を隔つる老鳥の、子故に手疵屈せぬ老女、「ノウ久吉様。我が子に代はるこの母も、天命遁れぬひっそぎ鑓。作りし罪の万分一、亡ぶることもあらうかと、思ひ余ったこの最期。武智が母は逆磔（さかばっつけ）に、かゝって無惨の死を遂げしと、末世の記録に残してたべ。それもやっぱり伜めが、可愛さ故の罪亡ぼし。うるさの娑婆（しゃば）に残らんより、孫と一緒に死出三途」「ハア、私もお供致しまする」「いづれもさらば」「おさらば」と、未練残さぬ武士（もののふ）の、花も実もあるこの世の別れ、今ぞはかなくなりにけり。操の前も初菊も、さらに詞も出でばこそ、あへなき骸（から）を押し動かし、天にあこがれ地に伏して、歎く心ぞ意地らしゝ。哀れをよそに真柴久吉、光秀に打ち向かひ、「ともに天を戴かぬ亡君の弔ひ戦。今この所で討ち取っては、義あって勇を失ふ道理。諸国の武士に久吉が軍功を知らさんため、時日を移さず山崎にて、勝負の雌雄を決すべし。ガ、如何に如何に」「ムウ、さすがの久吉、よく云ったり。我も惟任（これとう）将軍と、勅許（ちょっきょ）を受けし身の本懐。ひとまず都に立ち帰り、京洛中の者どもへ、地子（じし）を許すも母への追善。互ひの運は天王山、洞ヶ峠に陣所を構へ、たゞ一戦にかけ崩さん。首を洗って観念せよ」「ホウホウホウホウ、何さ何さハヽヽ。たとへ項羽（こうう）が勇あるとも、我また孫呉（そんご）が秘術を振るひ、千変万化（せんべんばんか）に駈け悩まし、勝鬨あぐるは瞬くうち」と久吉が、詞は揺るがぬ大磐石。たちまち巡り小栗栖（おぐるす）の土に哀れを残すとは、知らず知られぬ敵味方。睨み別るゝ二人の勇者。二世を固めの別れの涙、かゝれとてしも烏羽玉（うばたま）の、その黒髪をあへなくも、切り払ふたる尼ヶ崎。菩提の種と夕顔の、軒にきらめく千成瓢箪（せんなりびょうたん）。駒の嘶（いなな）き迎ひの軍卒。見渡す沖は中国より、おひおひ入り来る数万の兵船（ひょうせん）。威風凛々凛然たる、真柴が武名仮名書きに、写す絵本の太功記と、末の世までも残しける。