伊勢音頭

伊勢音頭恋寝刃（いせおんどこいのねたば）

油屋より奥庭十人斬の段

　こそは立ち帰る。

跡にお紺はうっとりと、暫し思案に暮告ぐる、遠寺の鐘も身にしみて、心とき付く胸の闇。やゝ有って顔を上げ、「折角思ひ思はれて、二世とかはした貢さん、退かねばならぬ浮世の義理。昨日伯母御様のお詞には、云号の榊様と祝言をさゝねば、養子親へ義理が立たぬ故、思ひ切ってくれい、とモ事を分けてのお頼み。とは云へ是が何とマア、一夜流れのあだ夢も、別れはおしき明の鐘。炎の中に暮らそふが、あなたを退いて片時も、浮世の日影が見られふか。むごいつれない胴欲な。別れと云ふ字を聞いてさへ胸にしみじみ悲しい」と、恨み涙にくれ居たる。「モこの中からもくれぐれと頼ましゃんした折紙の詮義。アノ奥の客が確かに持って居るとは思へども、帯紐解かねば肌身は赦さず。アヽマどふせふぞ。ヲヽそれよ此身を任すも夫の為。折紙を取りかへし、潔ふ自害して、未来の契りを待つが楽しみ。せめては死後の言訳」と泣く泣く硯引き寄せて、書き置く鹿の巻筆も、今宵限りの命毛と、又ふし沈み泣き居たる。「お紺さんお紺さん、お紺様は何所にぞ」と云ひつゝ出てくるやりての万野。見付けられじと文巻き取り、心もうはの空封じ。しらぬ万野は声高に、「お紺さんお紺さん、ヲヽお紺さんそこにかいな。そんな事知らずに一遍と尋ねましたわいな。イヤコレシコレお紺さんへ。モ今更云ふじゃないが、この間からもすゝめて居るアノ岩次様。大抵よいお客じやないぞへ。それにお前も物好きな。いかに心中立るとて、アノかす禰宜の貢づら。ヲホヽヽヽヽお紺さん、堪忍しておくなはいや、ホヽヽヽヽ。モ今も今とてお鹿様が、貢様から度々の無心状。誠かと思ふて身の皮はいで打ち込んだがモウ悔しいと私へのさんげ。コレシコレお紺さんへ、この文を見やしゃんせ。アノ口先でちょぼくさと、古市中の女郎の油をねずり廻る油虫。その油虫の事はとんと思ひ切り、岩次様に靡かんすりゃ、お前も出世。コレシコレお紺さんへ。この万野は悪い事はすゝめませぬぞへ。モウモウふっつりと思ひ切らしゃんせ」と焚き付けかける詞のわら。それとは知れど真顔に請け、「ヲヽ成程。この状の様子では、興の醒めた貢様。そんならお前の云はしゃんす通り、岩次様に乗り替やふはいな」「ヱヽアノお紺様、そんならお前様ほんまに岩様に乗り替へる気かへ」「何の嘘を云ふ物かいな」「お紺様。ヲヽ好きやよやよやよ、ホヽヽヽヽ。コリャコレ近年の大出来じゃはいなお紺さん。ヲヽよさやよやよや、ホヽヽヽヽ。そんなら直に奥へ往て、改めてかための盃。サアサアお出で」と無理やりに、引っ立てられて詮方も涙隠して入りにけり。

かくとはしらずうとうとと、恋には心引かれくる、身の災難に福岡貢、兎や角案じ佇みける。「ムヽウ、アノ歌は油屋の二階座敷、阿波の客が居続け騒ぎ、テモマ面白そふに詠ひおるな。ガそれに引きかへ、心ならぬは万次郎様のお身の上、今宵につゞまる御身の難儀。お紺に頼んだ折紙の詮議、今に何の返事もないは、岩次の手にないのか知らん。マア何にもせよ、お紺にちよつと逢ひたい」と見廻す内より出で来る喜助、出合頭に「ヤア、若旦那様」「ヲヽ喜助か、ヤ幸ひ幸ひ。どふぞ首尾して、お紺に一寸逢はしてたも」「ヘイ、畏りました」と奥口見廻し「イヤ申し若旦那さま、憚りながら一寸あれへ」「喜助、わしにか」「ヘイ」「何の用じゃ」「モ今改めて申し上げまするはいかゞなれども、日外お国の騒動より、この伊勢路へお引越しなされまして、あなた様には福岡へ御養子。それ故親共も奉公引いて、この古市にて僅な暮らし。その後大病を煩ひ、今端の枕元に私を呼び『アノ福岡孫太夫様の御養子貢様は、我々親子が古主の若旦那様。随分共に心を付けて忠義を尽せ』と遺言でござります。それで私もどふぞ御恩が送りたいと存じますれども、モ高が料理人風情の私。その大切なあなた様が、毎日毎夜の遊所通ひ、お紺様との浮名は古市中一ぱい。福岡様には云号の奥様も有り、御養子の御身分であゝ云ふお身持ではお為にならぬ。いつぞは御意見申したいと思ふ折からこのお出合ひ。イヤ申し若旦那様、余りせきせきお出でなされます所じゃござりませぬぞへ。何をちょこざいなと思し召しませふが、モケ様に慮外を申しまするも、つゞまる所はあなたのお為。ホンニ私は夜の目も合はず案じて計りおりまするはい。ハヽヽヽヽヤこれはしたり、何事もご存じのあなた様、必ずお気にさへられて、ヘイ下さりますな」「ムヽスリャそちは喜兵衛が倅で有ったよな。ヤ、コレハシタリ。モさすれば我が為にも家来同然。古主を忘れぬそちが異見、悪ふは請けぬ、忝い。ガマアそれは格別、コリャコレ大切な一腰、私が持って居ては人目に立つ。帰る迄預かってたも」「ヘイ、私がしっかりとお預り申しました」「アヽコレ、その一腰は青江下坂」「エヽそんならこれが」「いかにも。刀は手に入れども、これに付けたる折紙を衒られ、モ色々と詮議をすれども、今において行方知れず。何卒折紙を取り返さんと、毎夜こゝへ入り込むも、若しや詮議の手がゝりも有らふかと、心を砕く某。コレ、必ず他言は無用じゃぞや」「ヤこれはこれは。左様とも存ぜず慮外の段、まっぴら御用捨。シテその折紙を衒つた奴が、この油屋の内に」「サ確かにそれとはしらねども、若しやと思ふはアノ奥の。コレ喜助、一寸耳をかしゃ」「ヘイ。そんならアノ岩次が」「アヽコレ、シイ。密かに密に。何かは奥の大騒ぎに」「首尾を作るは最屈強」「そんなら喜助」「若旦那様。サアかうお出でなされませ」と先に立つ。案内に連れて福岡貢、暖簾の内に入りにけり。

こなたの障子引き明けて、窺ひ出でたる徳島岩次、何か心に打ち頷き、差し足抜き足暖簾の内、忍び入って二腰の刀をそっと後先見廻し、己が刀と貢が刀、手早に目釘コッチコチ、身をすりかへる即座の悪知恵。暖簾の影より窺ふ喜助。それと白刃の二腰を、元の如くにさし納め又も納戸へ持って入る。お紺は過ごす無理酒の、酔ひに心も乱れ足「岩次様岩次様」と呼び立てられて出て来る岩次。「ヲヽ岩様とした事が、座敷をはづしてお前はどこへ」「アヽイヤ、一寸手水に」「アノマア嘘ばっかり」「エヽ何の嘘を云ふてよい物か、証拠人は北六万野。ソレ用意よくば早これへ」といふ内奥に声高砂。「相に相生の松こそ目出たかりけれ」北六万野がとりどりに、とさん盃硯蓋、銘々に携へて、「サアサア申しお紺様、岩次様と固めの盃。色直しはすぐに床入り」「サアサアサア媒役はこの北六。嫁君から呑んで差し給へ」と、無理に突き付けつぎかくれば、こらへ兼ねてかけ出る貢、お紺が盃引ったくり落下微塵と投げ付けたり。「ヤイお紺おのりゃこの盃しては済むまいぞよ」「ヲヽ誰かと思へば貢様。お客と盃するが、どふして済まぬへ」「イヤモ、一通りの盃なら格別、この盃計りはさす事はならぬはい。コリャお紺、おのりゃこれ迄云ひかはした事皆忘れたな。モ最前から見て居れば、ほてくろしい座敷ぶり。エヽもふ了簡が」と立ちかゝるを岩次は引き退け「ヤイヤイヤイ、かす禰宜の大馬鹿者め。身が揚げ詰めの女郎に指でも差さば、ほでも脚もぶち折るぞよ」と云ふに万野がしゃしゃり出で「コレシコレ貢様、お前はマアこちの内へ誰が赦してござんしたへ。お前のよふな油虫はな、顔見るのも胸が悪い、アイぎゑんが悪い。サアサアとっとゝ逝んで貰ひましょ」とずっかり云はれて猶せき立ち「コリャ万野、マあじな事云ふな。この貢が女郎の油をいつ吸ふた事が有る、サアそれ聞かふ」「アノマアしらじらしい顔はいな。ヤコレシコレお紺様、最前の文見せてやらんせ」と、云ふにお紺が懐より、取り出し渡す以前の文、一々貢が見て恟り「ヨウ、おれが名を衒って女郎のお鹿へ無心の状」「何と覚へが有らふがな」「イヤ知らぬ。元より訳有る中じゃなし、こんな文やった覚へない。あた穢いアノお鹿、風俗と云ひ顔と云ひ、しっかい猿芝居のおそめ。余り呆れて物が云はれぬ」と、悪口聞いてかけ出るお鹿、貢が前に台臼なり。「コレシコレ貢様、最前から聞いて居れば、余りじゃぞへ余りじゃぞへ。アイ、私しゃどふでお紺様の様に美しうはないけれど、顔でお客はとらぬぞへ。コレ肝心の時にはくったりお客に堪能さすによって、終に一日お茶引いた事はござんせぬ。お前もそれを見込みに、アノ万野様を頼んで付文。その度々に、コヽヽコレ見なされ、この通りにナア、二歩ちょっとお借し。ソレ又この状に、三歩借せ。まだこゝに有る。ソレ見なされ、又一両入るのと、モ親にも聞かぬ無心をば、五度や十度の事かいな。エイ何をそれに今更知らぬとは、ソリャ卑怯じゃはいな卑怯じゃはいな。筆先でたらし込み、身の皮はいだ生き盗人。エヽ腹の立つ腹の立つ」と、云ひつゝ両手に胸づくし、引っつかむ手をもぎ放し「エヽ様々のたは言。身不肖なれども福岡貢、そちらに無心云ふよふな、おれじゃないはい。コリャお紺、これには何ぞ訳が有らふ、訳を云へ、どふじゃどふじゃやい」「ヲヽ、お前の内証の文が私の手に入り、腹の立つはコリャ尤もでござんす。ガ申し貢様、お前と私が中は、人も知った、サ中じゃぞへ。金の入る事が有るならば、打ち明けて斯々と云ふて下さんしたら、何ぼ甲斐性のない私でも、三十両や五十両の金、まんざら否とも云ふまいに、僅か二歩や三歩の端た金、お鹿様に無心云ふとは、モみすみす知れた、イヤサ見下げ果てた心じゃな。モウモウ色も恋もさめ果てたわいな。サそれじゃによって、ふっつりとお前の事を思ひ切り、岩次様になびくのでござんす。アイ、そふ思ふて下さんせ」と、けんもほろゝに云ひ放す。「コリャやいお紺、おのりゃ気が違ふたな、おのりゃ。モ流れの身にも誠有る者と思ひ、取りかはした起請誓紙。まだその上に大切な、イヤサ大事の事迄請け合ひながら、わりゃそれじゃ済むまいがな」「エヽイあたどんな、違ひました、イヤサ気が違ひました、アイ、性根がくさりましたわいな。モまいまい、まい付かずと、早ふ逝んで下さんせ」と、口には云へど心には『ヲヽ道理でござんす、ヲヽ道理じゃ』と、云ふに云はれぬこの場の仕儀、血をはく思ひ押し隠す。知らぬ貢は腹立ち涙。傍に北六高笑ひ「ハヽヽヽヽコリャおかしいわい。客が女郎の物だまして取るとは、コイツハ新しいわい、コリャ新版じゃはい、ハヽヽヽヽ。これが本の伊勢乞食じゃ伊勢乞食じゃ」と、何がな当たるにくて口。岩次も片頬にせゝら笑ひ「アヽイヤモ聞けば聞く程、馬鹿な詮索だはい。お紺が心底聞く上は、今夜中に身請して身が女房。ドレ、金の威光を見せふはい」とお紺が膝を仮枕、すねふんぞらす傍若無人。見るに貢は歯ぎしみ歯切り「エヽ見違ふた、あのこゝなどふ畜生。その根性とは知らず、大事を明かしたが、エヽ無念なはい。アとは云へ己に限って、よもやその様な根性とは知らなんだ知らなんだはい」と、睨む眼にはらはら涙。お紺が胸は猶百倍、張り裂く計りのせぐるしさ、涙まぎらす田葉粉さへ、炎にむせる思ひなり。

納戸に始終立ち聞く喜助、刀を持って走り出で「貢様、モウお帰りなされませ、悪い事は申しませぬ。サお預り申したお腰の物」と、指し出す刀引ったくり、腰に差す間も気はしゅらくら、刀の違ひに目も付かず。万野は傍へ立ち寄って「コレシコレ貢様、お前はもふしゃべり仕舞ひかへ、ヲヽ気の毒やの。コレシコレ貢様、ちょっとこちらへお出でなんせ、サアサア早ふごんせ、エヽ早ふおいなんせ。ヤコレシコレ貢様、最前から段々の失礼、サアお腹が立たふ、尤もでござんす。ガ私に免じてどふぞ堪忍して上げておくれなさんせ。ヤコレシコレ貢さん、何ぼお前がやきやき思はんしても、銭の切れ目が縁の切れ目じゃはいな。アノお紺様を恨みなさるゝ事は微塵もないぞへ。お前のそのすかんぴんを恨まんせ。モほんにほんにお前の様な貧乏神、片時置くのも内の不吉。サアとっとゝお帰り、とっとゝお帰り。よふお出でなさったへ。エ何、煙草入れお忘れれたのかへ。ドレドレ取って来て上げませふ。サアお帰りお帰り。エヽいにやがれ」と突き出す門口。堪へ兼ねて刀の柄、手はかけながら忠孝の、二字に引かれて喰ひしばる。「チエヽうぬ」「何じゃへ、歯をむき出し、そふらいしをひねくって、何かへ、私を切る気かへ。面白い面白い、サア切られよふ。サ、何所から切りなんす」「コリャ万野、己はな」「サアお切りなんせ」「エヽ、勝手にさらせ」と、道を蹴立てゝ立ち帰る。

万野は後を見送って「サアサア油虫のまくが切れた。サア岩次様北六様、これからは色直し、お床入りの玉子酒。お紺様も一所に、サアサア二階へ二階へ」と、云ふもそれ者の高調子。「イエイエ私ゃまだ岩様に、帯紐は得解かぬはいな」「ムヽ、ソリャ又何故何故」「サイナア、お前の持ってゐやしゃんす袱紗包み、定めて色の起請か文。それ見ぬ内は、疑ひは晴れぬはいな」「ナニ、これか」「アイ」「アヽコリャ大切な大切な、金比羅様のお守りさ」「サ、金比羅様のお守りにもせよ、私に見せて下さんせにゃ、真実心が解けぬはいなァ」「ム、テモ扨も女郎と云ふ者は、マ疑ひ深いものだ、ハヽヽヽヽ。アヽ是非に及ばぬ、大切な品なれども、そちにしっかり預くるぞ」「アイ、アイアイ合点」も一寸遁れ、嬉しさ恐さ胴震ひ、足を踏みしめ段梯子、二階へこそは上り行く。岩次は後に声ひそめ「コリャ万野、身が刀を早これへ」と、云ふに心得暖簾の内、刀抱へて走り出で、渡すを取って打ち眺め「ヨウ、コリャこれ、身が刀ではない」「エヽ、そんなら貢が取り違へて逝んだに違ひはない」と云ふに北六勇み出で「何じゃ、貢が刀を取り違へて逝んだとは、天の与へ天の与へ。これこそ望む青江下坂」「アヽイヤ、それが大間違ひだはい。最前密かに貢が刀と身が刀、中子をすり替へ置いたに、取り違へて逝におったが本の下坂」「エヽどんな。私が一寸一走り」「アヽイヤ申し、そのお使ひは私が参りませう」と、云ひつゝ納戸を出る喜助。「ヲヽ喜助か、よく気が付いた。貢に追っ付き腰の物を替へて来い。サ早う早う」と手に渡せば、「ヤまっかせ合点」と駈けり行く。万野は俄に心付き、「コレ申し岩次様、お前はマアめっさうなお方じゃはいな。アノ喜助はな、確か貢が譜代の家来じゃといな」と、聞くより岩次は興醒め顔。「サアサア壺じゃ壺じゃ」「岩次様、壺とは何壺じゃへ。水壺かへ、塩壺かへ、但しは子壺か」「アヽコリャコリャ万野、あはてなあはてな、と云ふて身共もあはてゝをるはい。コリャコリャ万野、そちは喜助に追っ付き刀を取り、貢が刀と替へて来い」「ハイハイ心得ました。貢に逢ふて刀をたくり、急度お渡し申しませう。ドリャ一走り」と身繕ひ、褄引き上げて「ヲヽイ喜助どん喜助どん」と声は先、体は後に心も空、足を早めて走り行く。岩次は後を見送って、「万野が戻って来る迄は、皆を相手に二階で飲まう。サアサアこちへ」と引き連れて、二階へこそは行く後へ、

又引っ返す福岡貢、取り違へたる脇差の、身は正真の下坂と、知らず知らねば気もそゞろ、門の戸引き明け内に入り、「誰もゐぬか。コリャ喜助、喜助。万野、万野はゐぬか、エヽをらぬか」と見廻す折しも遣手の万野、息もすたすた立ち戻り、顔見合せて、「ヤア貢様、お前様如何にあはてるてゝ、腰の物を取り違へると云ふ様な、粗相な事が有る物かいな。その刀こっちへ」と、取りにかゝるを突き放し、「イヤ、身が刀から先に渡せ」「エヽマア渡さぬとて、取らずに置かうか。エヽこの刀」と、取りにかゝるを続けざま、打てばばっしり鞘割れて、思はず知らず一刀。「アヽちめた、アヽちめた。ヲヽウ貢様、お前様斬りなはったなァ。アレエアレエ」と泣き叫ぶ。声立てさせじと口に手を当て、見れば血汐に身は紅。「南無三。ム、手が廻ったか。モウ百年目」と又ずっかり、斬られながらに逃げ行くを、髻掴んで引き戻し、肋骨をぐっと一抉り。その侭息は絶え果てたり。折しも奥より北六岩次、後に続いて出て来るお鹿「岩次様、北六様」と、尋ぬる向かうに立ち塞る。「ヤア貢様。アレ人殺しぢゃ人殺しぢゃ、アレアレ」といふ声に、「コリャさせぬは」と北六岩次、止めにかゝるを身をかはし、左へ廻る北六を、肩先下がりに斬り付くれば、「コリャ叶はぬ」と気転の岩次、奥庭さして遁れ行く。お鹿は足も地に付かず、こけつ転びつ這ひ廻る。「おのれお鹿」といふ声に、思はず知らず立ち上がり、逃げ行く後を逃さじと、躍り上がりて唐竹割。物音聞きつけ勝手より、起番男仲居下女、『物騒がしきは何事』と、差し出す仲居が手燭の光。振り向く拍子貢が顔、見るより三人足わなわな。「ヤレ人殺しぢゃ人殺しぢゃ」と、いふ間も待たず左より、右の腕を切り落とす。「うん」と仲居が即死の有様、見る両人がうろたへ廻り、奥と表へ逃げ行く男、『外へ出でなば面倒』と、声をもかけず後袈裟、返す刀に下女が首、水もたまらず切り落とす。音も分からぬ寝とぼけの、小女郎が出づる足元に、血にすべってばったりと、こける拍子にお鹿が傍、「ヲヽこのやうなところに水を流して、ヲヽちめた。ヲヽこゝに寝ては誰ぢゃいなァ。コレ起きんかいな起きんかいな」といひつゝ立ち寄り見てびっくり、「アレお鹿さんが斬られてぢゃ。アレアレ」といふ間もなく、片足ちゃうと斬り放せば、片足立ちにひいふうみいよろよろよろと、鉢前の手水鉢に取り付いて、そのまゝ息は絶え果てし、無惨といふも余りあり。「サア、この上は岩次一人、取り逃しては刀のありか。この一間こそ、ムそれ」と、窺ふ内より泊り客、「アヽ一杯機嫌にぐったりと寝てのけた。酔ひ醒めの、水の心地や朝桜、か。ハヽヽヽヽ。ヲヽコリャ灯が消えてあるはい」と、いひつゝ出づる廊下口。窺ふ貢が刃の光、「コリャたまらぬ」と逃げ行く庭先、逃ぐる人影岩次と心得、追うて行く。寝間より出づる相方女郎、貢を客と心得て、「申し、此七様はいな、どこへ行きなんす。申し、そちらは前栽ざますよ、落ちなんすなへ、あぶないざますよ。何、水ざいますか。コレシコレ、水ならこちらにあるはいな」と、しごきも脇へ、しどもなき、裾もほらほら追ひ行く女郎、振り返って拝み打ち。客はほうほう庭木の陰に、息を詰めてぞかゞみゐる。「コハ心得ず」と灯籠の、影に透かして、「たしかに岩次ござんなれ」と、襟髪つかみ引き出だし、土にさし付けにぢり付け、「サア下坂の刀はいづくへやりしぞ、真っ直ぐに白状ひろげ」と、ひしぎ付けられ、「アヽ申し、私は何にも知りませぬ」「ヤア今になって知らぬとは卑怯至極。いはぬとていはさいでおかうか」と、いふうちに来る人音に、「南無三」とためらふ隙にはね返し、逃げ行く後を横なぐり、すぐに立ち寄り顔見れば、「ヤアコリャ岩次ではなし。エヽ取り逃がせしか残念」と、拳を握りゐたりける。

お紺は驚き心も空、こけつ転びつ走り寄り、「貢様」「ヤアお紺か、覚悟いたせ」と突きかくる。「マアマア待って下さんせ。サアサア腹の立つは尤もなれども、これにはだんだん訳のある事」「ヤア何の訳の事」と、また振り上ぐる刀の下、「コレイナアコレ、気を鎮めてとっくりと、これ見て疑ひ晴らして」と投げ出す包み、手に取り上げ、「ヤア、コリャコレ折紙。ムヽそんなら宵のつれなきは」「サイナア、お前に忠義が立てさせたさ。どうやらかうやら岩次を騙し、首尾よう手に入るこの折紙」といふに貢は「ハヽア」今更に、後悔涙の折からに、喜助は心ならざれば、もしやと思ひ立ち戻る。「喜助か」「ヲヽ若旦那様。シテこの有様は」「どうも堪忍ならぬ故。喜助、赦してくれ」と刀の柄に手をかくれば、「コリャうろたへて何となされます」「ヲヽうろたへた。最前そちに預けた刀」「サア、それはそこに持ってござるのが、本の下坂」「ヨウ、そんならこれが。エヽ有難や有難やな」「サア申し、二色ともに揃ふた上は、一時も早う万次郎様へ、はやはやお渡しなされませ」「喜助、お紺、だんだんの心遣ひ、何にもいはぬ、忝い。シテこの場の首尾は」「ヘイ、私が呑み込みました。跡構はずと万次郎様へ」「ムヽしからば喜助、跡を頼む」といひ捨てゝ、立ち出でんとするところへ、木蔭をぬっと徳島岩次、「ヤアどこへどこへ。大事の刀こっちへ渡せ」と、打ってかゝれば身をかはし、「シヤよいところへ徳島岩次。おのれを方々尋ねしに、こゝへ出でたは百年目」と、打ってかゝれば切り払ひ切り結び、すきを見合はせ一刀、「うん」と倒るをのっかゝり、「恨みの刀受け取れ」と、刺し通されて七転八倒、心地よくこそ見えにけれ。傍にお紺は心せき、「夏の夜なれば早明け方。少しも早うその刀を」「ヲヽいふにや及ぶ。忠義を立つるも二人の情」と、心も勇む足勇む。忠義に心勇み立ち、屋敷をさして急ぎ行く。