摂 州 合 邦 辻（せっしゅうがっぽうがつじ）
［解 説］安永二年（一七七三）大坂北堀江座初演、菅専助・若竹笛躬の合作で、上下二段。謡曲「弱法師」・説教節「しんとく丸」等に描かれた俊徳丸伝説に継母の邪恋をからませたもので、玉手はギリシア神話をもとにした「フェードル」の主人公にも擬せられる。
［これまで］河内の大名高安左衛門通俊は正室の死後、玉手御前を奥方とするが、玉手は義理の息子で世継ぎの俊徳丸に恋をしかける。継母に言い寄られた上癩病を発病した俊徳丸は館を出奔する。盲目となった俊徳丸は万代池で許婚の浅香姫と再会するが、異母兄で世継ぎの座を狙う次郎丸に襲われたところを合邦に助けられて逃げ延びる。合邦は玉手の実親で、俊徳丸の後を追って家出した玉手は既に亡きものと思って供養をする。
［あらすじ］玉手は実家に戻り、匿われていた俊徳丸になおも迫るので、合邦は堪りかねて刀で刺す。玉手は苦しい息の下から、俊徳丸への恋慕は実は次郎丸の魔手から俊徳丸を救うための手立てであったと語り、自らの生血を俊徳丸に飲ませると癩病はたちまち快癒する。一同の感謝の中、玉手は満足して息絶える。
合 邦 庵 室（がっぽうあんじつ）の 段
しんたる夜の道。
恋の道には暗からねども、気は烏羽玉（うばたま）の玉手御前、俊徳丸の御行衛、尋ねかねつゝ人目をも、忍びかねたる頬被り。包み隠せし親里も、今は心の頼みにて、馴れし故郷の門の口、立ち寄る後より入平が、『御両所の御行衛ここ』とは聞けど奥方の姿見るより『様子も』と、戸脇に厚き藪畳、身をひそめてぞ窺ひ居る。かくとは知らで玉手御前、干（ひ）割れに漏るゝ細き声。「かゝ様かゝ様」と呼ぶは確かに娘の声。『ヤア、わりゃまだ死なぬか。殺さりゃせぬか』と立ち上がりしが心付き、振り返り見る女房の方。鉦に紛れて聞こへぬは、『これ幸い』と素知らぬ顔。「かゝ様かゝ様、ここ開けて」と、叩く戸の音聞き咎め。「合邦殿。今こな様何とぞ云ふてか」「イヽヤ、何とも云やせぬ。そりゃ空耳であろぞいの」「イヽヤ、空耳かは知らねども、ちらりと聞こへた娘の声。ハテ合点の行かぬ」と立ち上がる。「そふおっしゃるはかゝ様か。ちゃっと開けて下さんせ。辻でござんす。戻りました」と聞いてびっくり。「ヤア、戻ったとは夢ではないか。まめであったか嬉しや」と駈け出る裾を取って引き留め、「ヤイヤイヤイ、狼狽（うろたえ）者。肌は触れても触れいでも、我が子に不義を仕かけた畜生。侍の身で高安殿が、助けて置かしゃろ様なければ、何の今迄ながらへて、うかうかこゝへ何しにこふ。ア隠すより顕はるゝはなし。親はない、と云はしてもある事知って、娘が手から度々の合力（こうりょく）金。二人が命を養ふたは、皆高安殿の御厚恩。その夫の目を掠め、畜生の心さげた娘。たとへ無事で戻ったとて、門端も踏まされふか。元来（もとより）娘は切られて死んだ。ガ今物いふたが娘なりゃ、それこそ幽霊。そなた、気味が悪ふはないか。肉縁の深い程、死人になれば怖いもの。必ず門の戸開けまいぞ」と云ふに女房は「イヤイヤイヤ。幽霊は愚か、狐狸の化けたのでも、ま一度見たい娘が顔。もしや恐ろしい物であって、目を廻して死んだら幸せ。いとし可愛い子を先立て、生きて業（ごう）をさらそふより、一目見たい」と振り切るをなほ引き留めて、「テサテ悪い合点。狐狸か幽霊なればまだしも、もし誠の娘なら、高安殿へ義理の言訳。以前は刀を指した役。親の手にかけ殺さにゃならぬ。それが嫌さに留めるのじゃ」と、泣かねど親の慈悲心を、聞く子や妻は内と外。顔と顔とは隔たれど、心の隔てなき寄りの親身の誠ぞ哀れなる。
娘は涙押し拭ひ、門の戸口に口を寄せ「とゝ様のお腹立ち、お憎しみは御尤も。これには段々言訳あれど、人目を忍ぶこの身の上。まあこゝ開けて下さんせ」と、泣く泣く願へば母親は、「アレ聞いてか合邦殿。言訳があるといの。聞いてやって下さんせ。ハテ、娘と思へば義理も欠ける。幽霊を内へ入れるに、誰に遠慮もあるまいぞへ」「いか様のふ。この世を離れた者なれば、世間を憚る事もない。そんなら早ふ呼び込んで、茶漬でも手向けてやりゃ。可愛や立ち寄る所はなし。幽霊も嘸ひだるかろ」と、身を背けるは泣く百倍。母は悦び門口のとしや遅しと開く間も、「お懐かしや懐かしや」と、縋る娘の顔形、前後見つ肌に手を入れてもやっぱりほんの娘。「嬉しやまめで居たかいの。そふとは知らいで逆様事。あた忌々しい百万遍。弔ひした夜に無事な顔。ひょっと夢ではあるまいか」と、抱きしめ抱きしめ嬉し泣き。父も程ふる娘が顔、見たさに思はず立ち寄れど、以前の詞と世の義理を思へばちゃっと飛び退いて、手持ち悪いぞいぢらしき。
母は漸う心を鎮め、「世間の噂にはノ、そなたはアノ、俊徳様とやらに恋をして、館を抜けて出やったの、イヤ不義じゃのと悪ふ云へど、そなたに限りよもやよもやそふ云ふ事はあるまいの。コリャアノ嘘であろ嘘であろ、ヲヽ嘘か嘘か」と、箸持ってくゝめる様な母の慈悲。面映ゆげなる玉手御前、「母様のお詞なれど、いかなる過去の因縁やら。俊徳様の御事は寝た間も忘れず恋ひ焦がれ、思ひ余って打ち付けに云ふても親子の義理を立て、つれない返事固い程、なほいや増さる恋の淵。いっそ沈まばどこ迄もと、後を慕ふて歩（かち）裸足。あしのうらうら難波潟、身をつくしたる心根を、不憫と思ふてともどもに俊徳様の行衛を尋ね、女夫（みょうと）にして下さんすが親のお慈悲」と手を合はせ、拝み廻れば母親も、今更呆れ我が子の顔、たゞ打ち守るばかりなり。
父はとこうの詞なく、納戸の内より昔の一腰引っさげ出で、「ヤイ、畜生め。己にはまだ咄さねど、元俺が親は青砥左衛門藤綱といふてナ、鎌倉の最明寺時頼公の見出しにあふて天下の政道を預り、武士の鑑と云れた人。俺が代になっても親の陰。大名の数にも入ったれど、今の相模入道殿の世になって佞人（ねいじん）どもに讒言（ざんげん）しられ、浪人して廿余年。世を見限っての捨坊主。この形（なり）になってもナ、親の譲りの廉直を立て通した合邦が子に、よふもよふも己が様な女（おなご）の道も人の道も、無茶苦茶な娘を持ったと思へば、無念で身節が砕けるはい。ガ又、高安殿が今日迄、うぬを助けて置かっしゃる御心底を推量するに、元己は先奥方の腰元。後の奥方に引き上げふとあった時、たって辞退しおったを、心の正直懇望で無理やりに奥方なり。アヽ手をかけず、奥様とも云はさず今この仕儀にも及ぶまい。殺さにゃならぬ様になったも皆我が業、とお身の上を省みて、親への義理に助けさっしっるを、ヱ有難い恥ずかしいと思ふ心が芥子程でもあるなら、たとへどれほど惚れておっても、思ひ切るに切られぬといふ事はないわい。それに何じゃ。そのざまになっても、まだ俊徳様と女夫（みょうと）になりたい、親の慈悲に尋ねてくれとは、ドヽどの頬げたでぬかした。あっちから義理立てて助けて置かしゃる程、生けて置いてはこっちも又義理が立たぬ。覚悟せい、ぶち放す」と早抜きかくる刀の鯉口。母は取り付き、「コレ合邦殿、ソリャ了見が違ふた違ふた。お慈悲で助けて下さる娘、お志を無足（むそく）にして、殺して義理が立ちますか。ハテ、この上は随分と意見して、俊徳様の事思ひ切らし、命の代わりに尼法師。いかなる科（とが）の囚人（めしゅうど）も助かるは衣の徳。浮世を捨つれば死んだも同然。どこへの義理も立つ道理」と奥へ指ざし様々と、なだめすかして母親は、我が子の膝に膝擦り寄せ、「聞きゃる通りの様子なれば、どの様に思やっても、そなたの恋は叶はぬ程に、ふっつりと思ひ諦めて、早ふ尼になってたも。つゞや廿（はたち）の年ばいで、器量発明勝れた娘、尼になれと勧めるはどんな心であろぞいの。助けたいばっかりに花の盛りを捨てさせて、かゝれとてしも黒髪の百筋（ももすじ）千筋（ちすじ）と撫でしもの。剃ねばならぬこの仕儀は何の因果」とばかりにて、縋り付いて泣き居たる。娘は飛び退き顔色変え、「ヱヽ訳もない事云はしゃんすな。わしゃ尼になる事嫌じゃ嫌じゃ、アイ、嫌でござんす。せっかく艶よふ梳き込んだこの髪が、どふむごたらしう剃られるもの。今迄の屋敷風はもふ置いて、これからは色町風。随分艶（はで）に身を持って、俊徳様に逢ふたらば、あっちからも惚れて貰ふ気。怪我にも仮にも、尼の坊主のと云ひ出しても下さんすな」とけんもほろゝに寄せ付けず。「そふぬかしゃモウ堪忍が」と父が身構へ母親は、「ヲヽ道理でござんす。腹の立つは尤もじゃ。がモウ半時か、しいて一時わしに預けて下さんせ。手の裏を返す様に思ひ切らして見せませふ。夫婦になって長の年月。たった一度のわしが願ひ、聞き届けて下され」と、願へば是非もなかの間へ、見返りもせず行く爺（てて）親。母は意地ばる娘の手、引っ立て引っ立て無理やりに、納戸へこそは入る月の、
影さへ見へぬ目なし鳥。番（つがい）離れぬ浅香姫、一間の内より俊徳の御手を引いて忍び出で、「今の様子を聞くに付け、モウ暫くもこの内に、お前はどふも置きまされぬ。何国（いずく）へなりとお伴せふ」と手を引っ立つれば俊徳丸、「我が業（ごう）満てず母上にかく迄思はれ参らするも、身の罪障とは云ひながら、館を出でし頃には勝り両眼しいたるその上に、かゝるけやけき姿をばお目にかけなば母上の、愛着心は切れもやせん。案内せよ今一度、御目にかゝってその上に入平も尋ね来ば、召し連れて立ち退かん」と宣ふ声を聞き取る門口。「アヽいや、下郎めは先刻より始終の様子承る。この所に御座ある事、里人の噂に聞けば、もし敵方へ洩れては大事。一刻も早く御供せん」と気をせく折しも駈け出る玉手、「ナフ懐かしや俊徳様。お前に逢はふばっかりに幾世の苦労物案じ。心を尽くした甲斐あっておまめなお姿見たはいな」と縋り給へば、身を摺り退き、「ヱヽ情ない母上様。館にても申す如く同氏さへも娶（めとら）ぬは君子の禁（いまし）め。まして親子の中々に恋の色のとか程迄慕ひ給ふは御身ばかりか、宿業深き俊徳にまだまだ罪を重ねよとか。見るめいぶせきこの癩病、両眼しいて浅ましき姿はお目にかゝらぬか。これでも愛想が尽きませぬか。道も恥をも知り給へ」と、涙とともに恨むれど、「ヲヽ愚かな事をおっしゃります。そのお姿も私が業（わざ）。むさいともうるさいとも、何の思はふ思やせぬ。自ら故に業病に苦しみ給ふと思ふ程、いや増す恋の種となり、一倍いとしうござんする」「フウ、この業病を母上の業（わざ）とおっしゃるその子細は」「さればいな。去年霜月住吉で神酒（みき）と偽り、コレこの鮑で勧めた酒（ささ）は秘法の毒酒、癩病発する奇薬の力。中に隔をしかけの銚子、私が呑んだは常の酒（ささ）。お前のお顔を醜うして、浅香姫に愛想尽かさせ、我が身の恋を叶へふ為。前世の悪業消滅と、家出ありしはよい幸ひ。後を慕ふて知らぬ道、お行衛尋ぬるその中（うち）も、君が筐（かたみ）とこの盃、肌身放さず抱きしめて、いつか鮑の片思ひ。つれないはいな」と御膝に、身を投げ伏してくどき泣き。
様子を聞いて俊徳丸、『無念』と思（おぼ）せど義理の親、恨みも云はれず兎に角に、『我が身の不運』と御落涙。姫はいっそ涙も出でず、腹立ち紛れ取って突き退け、「ヱヽ聞けば聞く程余りじゃ余りじゃ、余りじゃはいな。玉をのべたお姿を、よふあの様にしやったのふ。母御の身として子に恋慕、人間とは思はねど、道ならぬ事も程がある。サア元のお顔にして返しゃ」と、恨み余りてはしたなさ。玉手はすっくと立ち上がり、「ヤア恋路の闇に迷ふた我が身。道も法も聞く耳持たぬ。モウこの上は俊徳様、いづくへなりとも連れ退いて、恋の一念通さで置かふか邪魔しやったら蹴殺す」と飛びかゝって俊徳の御手を取って引っ立つる。「アヽラ穢らはし」と振り切るを、「放れじやらじ」と追ひ廻し、支へる姫を踏み退け蹴退け、怒る目元は薄紅梅。逆立つ髪は青柳の、姿も乱るゝ嫉妬の乱行。門には入平身に冷汗、こらへかねて駈け出る合邦、娘が髻（たぶさ）引っ掴み、ぐっと差し込む氷の切先、「あっ」と玉ぎる声にびっくり戸をめりめり、駈け込む入平、驚く御夫婦、「情なや母上を手にかけしか」と御涙。娘を抱へる母親は、「心からとは云ひながら、ヲヽ術なかろ苦しかろ」と嘆けば今更人々も、涙々を添へにける。
合邦は怒りの顔色、筋骨立てて「ヤア皆何の為にその涙、ナヽ何ほへるのじゃ女房ども。われ泣いては左衛門様や俊徳様御夫婦へ、心の義理が立つまいがな。この様な念の入た大悪人を、まだおのりゃ子じゃと思ふか。おりゃもふもふ憎ふて憎ふて、どふもかうもたまらぬ故、十年以来（このかた）蚤一疋殺さぬ手で現在の子を殺すも、浮世の義理とは云ひながら、これが坊主のあらう事か。コリャヤイコリャ、おのればかりかこの親迄、仏の教へを背かして、無間（むけん）地獄の釜焦げによふしおったな、うぬ。魔王め」とゑぐる拳を手負ひは押さへ、「ヲヽ道理でござんす。道理じゃ道理じゃ憎い筈じゃ。ガこれには深い様子のある事。物語る中（うち）この刀、必ず抜いて下さんすな」と、苦しき息をほっとつぎ、「様子と云ふは外でもなく、外戚（げしゃく）腹の治郎丸様、年かさに生まれながら後に生まれた俊徳様に、家督を継がすを無念に思ひ、壺井平馬と心を合はし、御世継の俊徳様、殺さふと云ふ兼ねての工み。推量ばかりか委しい様子、立ち聞きして南無三宝。義理ある中の御子といひ、元は主人の若殿様。殺させては道立たず。この上は俊徳様、御家督さへお継ぎなくば、治郎丸様の悪心も自然とやんでお命に別条ない、と思案を極め、心にもない不義徒（いちずら）。云ふもうるさや穢らはしい。妹背の固めと毒酒を勧め、難病に苦しめたはナ、お命助けふばかりの術（てだて）。恋でないとの言訳は、身をも放さぬこの盃。母の心子は知らぬ、片思ひと云ふ心の誓ひ。継子継母の義は立っても、嘸や我が夫（つま）通俊様、『根が賤しい女故、見損ふた徒（いたずら）者』とおさげしみを受けるのが、黄泉（よみじ）の障りになるはいの」と、云へど合邦嘲（あざ）笑ひ、「それ程知れた次郎丸が悪事、ナヽヽなぜ通俊様へ告げぬぞい。たった一口云ひさへすりゃ、癩病にする事も不義者にもならぬはい。口利根（りこん）に云ひ廻したとて、今になってそんな暗い言訳くふ様な親じゃないはい」「イヤそりゃとゝ様の御了見違ひ。その様子を夫へ告げなば、道理正しい左衛門様、お怒りあって次郎丸様、御切腹かお手討は知れた事。次郎丸様も俊徳様も私が為には同じ継子、義理ある中に変はりはない。悪人なれど殺しては、先立たしゃんした母御前が、草葉の影でも嘸や嘆き。隔てた中故訴人して、殺したかと思はれては世間も立たず。通俊様もお子の事、何の心よからふぞ。あなたこなたを思ひやり、継子二人の命をば我が身一つに引き受けて、不義者と云はれ悪人になって身を果たすが、継子大切夫の御恩せめて報ずる百分一」と言訳聞いて人々は、『さてはそふか』と疑ひの、晴れる程猶爺（てて）親は、「コリャ娘、その心でなぜに又、俊徳様の後追ふて家出したが合点がいかぬ」「ヲヽ尤なお咎めなれど、何国（いずく）迄も行衛を尋ね、あなたのお目にかゝらねば、労はしやあの癩病、御本腹はござんせぬ」と聞いて入平不審顔。「フウ何とおっしゃる。お前がお傍に付いてござれば、御本腹なさるゝとは」「さればの事。典薬法眼に様子を打ち明け、毒酒の調合頼む折から、本腹の治法詳しく尋ねしに、『胎内より受けたる癩病ならず、毒にて発する病（やまい）なれば、寅の年寅の月寅の日寅の刻に誕生したる女の、肝の臓の生血を取り、毒酒を盛ったる器にて病人に与へる時は即座に本腹疑ひなし』と聞いた時のその嬉しさ。それでそれでこの盃、身に添へ持って御行衛、尋ね探す心の割符。とゝ様、なんと疑ひは晴れましてござんすかへ」「ヲイヤイ。スリャそちが生まれ月日が妙薬に合ふた故、一旦は癩病にしてお命助け、又身を捨てて本腹さそふと、それで毒酒を進ぜたな」「アイ」「ヘヱヽ出かしおった、出かした出かした娘。コリャやいモヽヽヽヽ何にも云はぬ堪忍してくれ堪忍してくれ。日本はさて置き、唐にも天竺にも今一人と比べる人もない貞女を、畜生の悪人のとにくて口云ふばかりか、親の手にかけむごい最期も、コレこの俺が愚鈍なからじゃ阿呆なからじゃ。赦してくれ」とどふど居て、悔み涙ぞ道理なる。
始終を聞いて俊徳丸、探り寄って継母の手を取り押し戴き押し戴き、「なさぬ中の義を重んじ御身を捨てての御慈愛。誠の親とも命の親とも云ふにも尽きぬ御厚恩。身を百千に砕くとも何と報じ尽くすべき。有難や忝や」と頭（こうべ）を畳に付け給へば、「そのお心とは露知らず勿体ない道知らずとさげしんだのが恐ろしい。お赦しなされて下さりませ」と、両手を合はす姫の詫。「遖（あっぱれ）女の鑑とも云はるゝお身に悪名受け、かゝる御最期いたはしや」と姫入平も悲嘆の涙。母は正体涙にくれ、「ほんにこの子が生まれたは寅の年寅の月寅の日の寅の刻。『世間へ沙汰をせぬもの』と世の教へをば大事ぞと、夫婦親子のその外は犬猫にさへ隠したに、義理に迫れば我と我が身をせめ果たる無常の虎。ひょんな月日に生まれたは持って生まれた不運か」と、嘆けば『道理』と一座の涙、逢坂増井の名水に龍骨車（りゅうごしゃ）かけし如くなり。
手負ひは顔を振り上げて、「サアサアとゝ様、コレこの鳩尾（きゅうび）を切り裂いて肝の臓の生血を取り、この鮑で早ふ早ふ」と気を入る娘。「ヱヽ、憎いと思ふた張り合ひなりゃこそ切りも突きもなったもの。今では真底可愛い娘を、どふマアそれがむごたらしい。ナニ、若役じゃ、入平殿とやら。大義ながら頼みます」「これは又迷惑千万。主人の介抱お世話の御礼、どんな御用も相勤めふが、御主人同然の玉手様。どこへ刃が当てられませふ。こればかりは御免御免」「ヱヽ未練な用捨。もふ人頼みには及ばぬ」と、懐剣逆手に取り直せば、「マヽヽヽヽ待ってくれ娘。とても生きぬそちが命、臨終正念未来成仏。仏力頼む百万遍、この人数でくる数珠の、輪の中で往生せい」と、とりどり広げる数珠の輪の、中に玉手は気丈の身構へ。俊徳丸を膝元へ、右に懐剣左に盃。外には爺（てて）の親粒が、導師の役と鉦撞木。母は涙の目も明かず、「宵は死んだと思ひ子が回向の為の百万遍。今又無事なと悦んだも露と消へ行く進めの念仏。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」内にはなんなく切り裂く鳩尾（きゅうび）、自身に血汐受けけたる盃、差し付くる手もわなわなわな。俊徳丸は押し戴き、『母の賜物（たまもの）天地にも余るばかりの御芳志』と、只一口に呑み干し給へば、不思議や忽ち両眼開け面色手足も瞬く中、昔の姿に返り咲花の顔（かんばせ）見る手負ひ、苦しき片頬（かたほ）に笑ひ顔。「ヤア御本腹か」と一座の悦び、早断末魔の四苦八苦、鉦も早めて責念仏。「なまいだなまいだなまいだなまいだ」願以此（がんにし）功徳平等に死骸に取り付き縋り付き悲しみ涙忝涙、庭に波打つばかりなり。
嘆きの中に母親は、頭（かしら）の雪を打ち払ひ娘が菩提の尼衣。俊徳君も涙を止め、「広大無辺継母の恩、せめて少しは報ずる為、出世の後はこの辺に一宇の寺院を建立（こんりゅう）し、母の尼公（にこう）を住侶（じゅうりょ）とせん。継母は貞女の鑑とも、曇らぬ心は清る江（え）に月を宿せし操を直（すぐ）に、月江寺と号（なづ）くべし」と、仰せは今も尼寺と常念仏の鉦の音に昔の哀れや残るらん。父は常々勧進の自力他力にこの仏体、建立（こんりゅう）して我が住家をその儘一つの辻堂に、営むも又平等利益。『東門中心極楽へ、娘を往生なし給へ』と、願ふ心は後世の為。現世の名残数々は百八煩悩夢さめて、涅槃（ねはん）の岸に浮無瀬（うかむせ）と、筐（かたみ）に残る盃の逆様事も善知識。仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦ヶ辻と古跡を止（とど）めけり。
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