鶴が岡

仮名手本忠臣蔵

［解　　説］寛延元年（１７４８）竹本座初演。竹田出雲・三好松洛・並木千柳による合作。全十一段。赤穂義士の吉良邸討ち入り事件を脚色したもの。当時の幕府を憚って時代設定を「太平記」の世界に移し、浅野内匠頭を塩冶判官（えんやはんがん）、吉良上野介を高師直（こうのもろのう）、大石内蔵助を大星由良之助（おおぼしゆらのすけ）としてある。

［あらすじ］足利尊氏は新田義貞を討ち亡ぼし、その最期の時に着していた兜を鶴岡八幡宮に奉納するため、代参として弟直義を遣わすが、奉納の是非をめぐって高師直と桃井若狭之助（もものいわかさのすけ）が対立する。兜の目利き役として呼び出された、塩冶判官の妻顔世（かおよ）御前は以前、後醍醐天皇が義貞に兜を賜ったときの取り次ぎをしたので、四十七の兜の中からその兜を見分ける。顔世に下心を抱く師直は恋文を渡して言い寄るが、折から来合わせた若狭之助に妨害される。その意趣返しとして師直が若狭之助をさんざんに辱めたので、若狭之助は思わず師直に切りかかろうとするが、状況を考えてその場は抑える。　

大序　　鶴ヶ岡の段

　嘉肴（かこう）ありといへども食せざればその味（あじわい）を知らずとは、国治まってよき武士の忠も武勇も隠るゝに、たとへば星の昼見えず夜は乱れて顕はるゝ、例（ためし）をこゝに仮名書きの、太平（たいへい）の代の政（まつりごと）。頃は暦応（りゃくおう）元年二月下旬、足利将軍尊氏公新田義貞を討ち亡し、京都に御所を構へ徳風四方（よも）に普（あまね）く、万民草の如くにて靡き従ふ御威勢。国に羽（は）をのす鶴ヶ岡八幡宮御造営成就し、御代参として御舎弟足利左兵衛督（さひょうえのかみ）直義公、鎌倉に下着なりければ、在鎌倉の執事高武蔵守師直、御膝元に人を見下す権柄眼（けんぺいまなこ）。御馳走の役人は、桃井播磨守が弟若狭助安近、伯州（はくしゅう）の城主塩冶判官高定。馬場先に幕打ち廻し、威儀を正して相詰むる。直義仰せ出ださるゝは、「いかに師直。この唐櫃（からひつ）に入れ置きしは、兄尊氏に亡ぼされし新田義貞、後醍醐の天皇より給はって着せし兜。敵ながらも義貞は清和源氏の嫡流。着捨ての兜と云ひながら、その侭にも打ち置かれず、当社の御蔵に納める条、その心得有るべしとの厳命なり」と宣へば、武蔵守承り、「これは思ひも寄らざる御事。新田が清和の末なりとて、着せし兜を尊敬（そんきょう）せば、御旗下（はたした）の大小名、清和源氏はいくらも有る。奉納の義しかるべからず候」と、遠慮なく言上す。「イヤ左様にては候まじ。この若狭助が存ずるは、これは全く尊氏公の御計略。新田に徒党の討洩らされ御仁徳を感心し、責めずして降参さする御方便（てだて）と存じ奉れば、無用との御評議卒爾（そつじ）なり」と、云はせも果てず、「イヤア師直に向かって卒爾（そつじ）とは出過ぎたり。義貞討ち死にしたる時は大わらは。死骸の傍に落ち散ったる兜の数は四十七。どれがどふとも見しらぬ兜、そふで有らふと思ふのを、奉納したその跡でそふでなれば大きな恥。生（なま）弱輩な形（なり）をしてお尋ねもなき評議。すっこんでお居やれ」と御前よきまゝ出る侭に、杭とも思はぬ詞の大槌、打ち込まれてせき立つ色目。塩冶引っ取って、「コハ御尤もなる御評議ながら、桃井殿の申さるゝも納まる代の軍法、これ以て捨てられず。双方全（まった）き直義公の、御賢慮仰ぎ奉る」と申上ぐれば御機嫌有り、「ホヽ左（さ）云はんと思ひし故、所存有って塩冶が婦妻（ふさい）を召し連れよと云ひ付けし。これへ招け」とありければ、「はっ」と答への程もなく、馬場の白砂素足にて裾で庭掃く裲（うちかけ）は、神の御前の玉箒（たまはばき）玉も欺く薄化粧、塩冶が妻の顔世御前、遥か下がって畏まる。女好きの師直その侭声かけ、「塩冶殿の御内室顔世殿、最前より嘸（さぞ）待ち遠。御大儀御大儀。御前のお召し近ふ近ふ」と取り持ち顔。直義御覧じ、「召し出だす事外ならず。往（いんじ）元弘（げんこう）の乱れに、後醍醐帝都にて召されし兜を、義貞に給はったれば、最期の時に着つらん事疑ひはなけれども、その兜を誰有って見知る人外になし。その頃は塩冶が妻、十二の内侍のその内にて、兵庫司（ひょうごつかさ）の女官なりと聞き及ぶ。嘸（さぞ）見知り有らんず。覚えあらば兜の本阿弥、目利き目利き」と女には、厳命さへも和らかに、お受け申すも又なよやか。「冥加に余る君の仰せ。それこそは私が、明け暮れ手馴れし御着（ごちゃく）の兜。義貞殿拝領にて、蘭奢待（らんじゃたい）といふ名香を添へて給はる、御取り次ぎは則ち顔世。その時の勅答には、人は一代名は末代、すは討ち死にせん時、この蘭奢待（らんじゃたい）を思ふ侭、内兜に炊きしめ着るならば、鬢（びん）の髪に香を留めて、名香かほる首取りしと云ふ者あらば、義貞が最期と思し召されよとの、詞はよもや違ふまじ」と申上げたる口元に、下心有る師直は、小鼻いからし聞き居たる。直義くはしく聞こし召し、「ヲヽ詳（つまびら）かなる顔世が返答。さ有らんと思ひし故、落ち散ったる兜四十七、この唐櫃（からひつ）に入れ置いたり。見分けさせよ」と御諚意（じょうい）の下侍、かゞむる腰の海老錠を、明くる間遅しと取り出だすを、おめず臆せず立ち寄って、見れば所も名にしおふ、鎌倉山の星兜、とっぱい頭獅子頭。さて指物（さしもの）は家々の、流儀流儀によるぞかし。或は直平（ちょっぺい）筋兜、錣（しころ）のなきは弓の為。その主々の好みとて、数々多きその中にも、五枚兜の龍頭（たつがしら）これぞと云はぬその内に、ぱっとかほりし名香は、「顔世が馴れし義貞の兜にて御座候」と指し出だせば、「左様ならめ」と一決し、「塩冶桃井両人は、宝蔵に納むべしこなたへ来たれ」と御座を立ち、顔世にお暇給はりて段かづらを過ぎ給へば、塩冶桃井両人も打連れてこそ入りにける。

　跡に顔世はつきほなく、「師直様は今しばし、御苦労ながらお役目を、お仕舞ひ有っておしづかに。お暇（いとま）の出たこの顔世、長居は恐れおさらば」と、立上がる袖すり寄ってじっと控へ、「コレまあお待ち、待ち給へ。けふの御用仕舞ひ次第、その元へ推参してお目にかける物が有る。幸ひのよい所召し出された、直義公は我が為の結ぶの神。御存じの如く我等歌道に心を寄せ、吉田の兼好を師範と頼み日々の状通。その元へ届けくれよと問ひ合はせのこの書状。いかにもとのお返事は、口上でも苦しうない」と、袂から袂へ入るゝ結び文、顔に似合はぬさま参る武蔵鐙（あぶみ）と書いたるを、見るよりはっと思へども、『はしたなう恥しめてはかへって夫の名の出る事。持ち帰って夫に見せふか。いやいや、それでは塩冶殿、憎しと思ふ心から怪我過ちにもならふか』と、物をも云はず投げ返す。人に見せじと手に取り上げ、「戻すさへ手に触れたりと思ふにぞ、我が文ながら捨ても置かれず。くどうは云はぬ。よい返事聞く迄は、くどいてくどいて、くどきぬく。天下を立てふと伏せふとも侭な師直。塩冶を生けふと殺さふとも、顔世の心たった一ツ。なんとそふでは有るまいか」と、聞くに顔世が返答も、涙ぐみたるばかりなり。折から来合はす若狭助、例の非道と見て取る気転。「顔世殿まだ退出なされぬか。お暇出て隙取るは、かへって上への恐れ。はやお帰り」と追立つれば、『きゃつ扠はけどりし』と、弱味をくはぬ高師直。「ヤア又してもいはれぬ出過ぎ。立ってよければ身が立たす。この度（たび）の御役目、首尾よう勤めさせくれよと、塩冶が内証（ないしょう）顔世の頼み。そふなくては叶はぬ筈、大名でさへあの通り。小身者に捨知行（すてちぎょう）誰（た）がかげで取らする。師直が口一ツで五器さげふも知れぬあぶない身代。それでも武士と思ふじゃ迄」と、邪魔の返報にくて口。くはっとせき立つ若狭助、刀の鯉口砕くる程握り詰めは詰めたれども、神前なり御前なりと一旦の堪忍も、今一言が生き死にの、言葉の先手（さきて）「還御ぞ」と、御先（みさき）を払ふ声々に詮方なくも期（ご）を延ばす。無念は胸に忘られず、悪事悖（さか）って運強く切られぬ高師直を、明日の我が身の敵（かたき）とも、知らぬ塩冶が跡押さへ。直義公は悠々と歩御（ほぎょ）なり給ふ御威勢。人の兜の龍頭（たつがしら）御蔵に入るゝ数々も、四十七字のいろは分けかなの兜をやはらげて、兜頭巾のほころびぬ国の掟ぞ

★演者・時間の都合により抜き差しがあります