7danme

仮名手本忠臣蔵

［解　　説］寛延元年（１７４８）竹本座初演。竹田出雲・三好松洛・並木千柳による合作。全十一段。赤穂義士の吉良邸討ち入り事件を脚色したもの。当時の幕府を憚って時代設定を「太平記」の世界に移し、浅野内匠頭を塩冶判官（えんやはんがん）、吉良上野介を高師直（こうのもろのう）、大石内蔵助を大星由良之助（おおぼしゆらのすけ）としてある。

［あらすじ］塩冶判官の旧臣斧九太夫（おのくだゆう）は、師直の家臣鷺坂伴内（さぎさかばんない）と通じて由良之助の動向を探っているが、今日も由良之助が居続ける祇園の一力（いちりき）へ伴内と連れ立って入り込む。いつまでも敵討ちへの行動を起こさず遊びほうけている由良之助に業を煮やして矢間十太郎（やざまじゅうたろう）、千崎弥五郎（せんざきやごろう）、竹森喜多八（たけもりきだはち）の三人が談判に来る。三人は由良之助に詰め寄るが、敵討ちの連判入りを望んで付いて来た足軽の寺岡平右衛門（てらおかへいえもん）に制される。子息力弥（りきや）が持参した判官の御台顔世（かおよ）からの文を、この一力に来合わせたおかるに覗き読まれた由良之助は、秘密を漏らさぬためにおかるを請け出そうとする。偶然出会った兄平右衛門から父親と夫勘平の死を聞いたおかるは、由良之助の本心を悟った平右衛門の手にかかろうとするが、そこに現われた由良之助に留められる。由良之助は床下に潜んで文を盗み見た九太夫を平右衛門に託して、「鴨川で水雑炊を食らわせい」と言いつける。

七段目　　一力茶屋の段

　花に遊ばゞ祇園あたりの色揃へ、東方南方北方西方、弥陀の浄土か、ひかりひかひか光り輝く奥座敷、ワイワイノワイトサ

　「誰（た）そ頼まう。亭主は居ぬか、亭主、亭主」「これは忙しいは。どいつ様ぢゃ、どなた様ぢゃ。ヱ斧九太様、御案内とはけうとい、けうとい」「イヤ初めてのお方を同道申した。きつう取込みさうに見えるが、一ツ上げます座敷があるか」「ござりますとも。今晩はかの由良大尽の御趣向で、名ある色達を掴み込み、下座敷はふさがってござりますれど、亭（ちん）座敷があいてござります」「そりゃまた蜘蛛の巣だらけであらう」「また悪口を」「イヤサよい年をして、女郎の蜘蛛の巣にかゝらまい用心」「こりゃきついは。下に置かれぬ二階座敷、ソレ灯をともせ仲居ども」「ナント伴内殿、由良之助が体（てい）御覧じたか」「九太夫殿、ありゃいっそ気違ひでござる。段々貴殿より御内通あっても、あれ程にあらうとは、主人師直も存ぜず。拙者に罷り上って見届け、心得ぬ事あらば早速に知らせよと申し付けましたが、扠々々我もへんしも折れましてござる。伜力弥めは何と致したな」「こいつも折節この所へ参り共に放埓（ほうらつ）。指合ひくらぬが不思議の一ツ。今晩は底の底を探り見んと、心巧みを致して参った。密々にお話申さう、いざ二階へ」「先づ先づ」「然（しか）らば、かうお出で」

　「弥五郎殿、喜多八殿、これが由良之助殿の遊び茶屋、一力と申すのでござる。誰（た）そちょと頼みたい」「アイアイどな様ぢゃへ」「イヤ我々は由良之助殿に用事あって参った。奥へ行て云はうには、矢間十太郎、千崎弥五郎、竹森喜多八でござる。この間より節々（せつせつ）迎ひの人を遣はしますれども、お帰りのない故、三人連れで参りました。ちと御相談申さねばならぬ義がござる程に、お逢ひなされて下されときっと申してくりゃれ」「それは何とも気の毒でござんす、由良様は三日以来（このかた）呑み続け。お逢ひなされてから他愛はあるまい、本性はないぞへ」「ハテさてまあさう云ふておくりゃれ」「アイアイ」「弥五郎殿、お聞きなされたか」「承って驚き入りました。初めの程は敵へ聞かする計略と存じましたが、いかう遊びに身が入り過ぎまして、合点が参らぬ」「何とこの喜多八が申した通り、魂が入れ替ってござらうがの。いっそ一間へふん込み」「イヤイヤとくと面談致した上」「成程。然らばこれに相待ちませう」

　「手の鳴る方へ、手の鳴る方へ」「とらまよ、とらまよ」「由良鬼やまたい、由良鬼やまたい」「とらまへて酒呑まそ、とらまへて酒呑まそ。コリャとらまへたは。サア酒々、銚子持て、銚子持て」「イヤコレ由良之助殿、矢間十太郎でござる。こりゃ何となさるゝ」「南無三、仕舞うた」「ヲヽ気の毒。何と栄さん、ふしくたやうなお侍様方。お連れ様かいな」「さあれば、お三人ともこはい顔して」「イヤコレ女郎達、我々は大星殿に用事あって参った。暫く座を立って貰ひたい」「そんな事でありそなもの。由良様奥へ行くぞへ、お前も早うお出で。皆様これにへ」「由良之助殿、矢間十太郎でござる」「竹森喜多八でござ」「千崎弥五郎御意得に参った。お目覚まされませう」「これは打ち揃ふてようお出でなされた。何と思ふて」「鎌倉へ打立つ時候はいつ頃でござるな」「さればこそ、大事の事をお尋ねなれ。かの丹波与作が歌に、『江戸三界へ行かんして』ハヽヽヽヽ御免候へ、他愛他愛」「ヤア酒の酔い本性違はず。性根が付かずば三人が、酒の酔いを醒さしませうかな」「ヤレ聊爾（りょうじ）なされまするな。憚りながら平右衛門めが、それへ参って只一言申し上げたい義がござります。暫く暫く、暫く暫く、暫くお控へ下されませう。御家老様、寺岡平右衛門めでござります。御機嫌の体（てい）を拝しまして、如何ばかり大悦に存じ奉ります」「フウ、寺岡平右、寺岡平右とは、ヱヽ何でゑすか、前かど北国（ほっこく）へお飛脚に行かれた足の軽い足軽殿か」「ネイネイ左様でござります。殿様の御切腹を北国（ほっこく）にて承りまして、南無三宝と宙を飛んで帰りまする道にて、お家も召し上げられ、御一家中も散り散りと、承った時の無念さ。奉公こそ足軽なれ、御恩は変らぬお主の仇、おのれ師直めを一討ちと鎌倉へ立ち越へ、三ケ月が間非人となって付け狙ひましたれども、敵は用心厳しく近寄る事も叶ひませず、所詮ドン腹かっさばかんと存じましたが、国元の親の事を思ひ出しまして、すごすご帰りました。所に、天道様のお知らせにや、いづれも様方の一味連判、石碑御建立の様子承りますると、ヤレ嬉しや有難やと、取る物も取りあへず、あなた方の御旅宿を訪ね、ひたすらお頼み申し上げましたれば、出かしたうい奴だ、お頭へ願ふてやろとのお詞にすがり、これまで推参仕りました。ガ師直屋敷の」「ア来いよ、来いよ、来いよ。これ、これこれ、アそのもとは足軽ではなうて、大きな口軽ぢゃの、何と幇間（たいこもち）なされぬか。尤もみたくしも、蚤の頭（かしら）を斧（よき）で割った程無念なとも存じて、四五十人一味を拵へてみたが、ア味な事の。よう思ふてみれば、仕損じたらこの方の首がころり。仕畢（おお）せたら跡で切腹。どちらでも死なねばならぬ、といふは人参呑んで首括る様なもの。殊にそのもとは五両に三人扶持の足軽。」「それはあんまり」「お腹は立てられな、お腹は立てられな、ハヽヽヽヽ。はっち坊主の報謝米程取ってゐて、命を捨てゝ敵討ちしやうとは、そりゃ青海苔貰ふた礼に太々神楽（だいだいかぐら）を打つやうなもの。我等知行千五百石、貴様と比べると敵の首を斗升（とます）ではかる程取っても釣り合はぬ、釣り合はぬ所でやめた、ナ聞こえたか、聞こえたか。とかく浮世はコレコレコレ、『かうしたものぢゃ、ツヽテンツヽテン、チチテンツンシャン、なぞと弾きかけた所はたまらぬたまらぬ、たまらぬでゑすはい、ハヽヽヽヽ」「これは由良之助様のお詞とも覚えませぬ。僅か三人扶持取る拙者めでも、千五百石の御自分様でも、繋ぎました命は一ツ、御恩に高下はござりませぬ。押すに押されぬはお家の筋目。殿の御名代もなされまするお歴々様方の中へ、見る影もない私めが、差し加へてとお願ひ申すは、憚りとも慮外とも、ほんの猿が人真似。お草履を掴んでなりとも、お荷物をヤットウ担いでなりとも参りませう。どうかお供に召し連れられて、御家老様、由良之助様、どうかお供に召し連れられて、これはしたり、寝てござるさうな」「コレサ平右衛門、あったら口に風ひかすまい。由良之助は死人も同然。矢間殿、千崎殿、もう本心は見えましたか。申し合はせた通り計らひませうか」「如何様（いかさま）、一味連判の者共への見せしめ。いざいづれも」と立寄るを、「ヤレ暫く」と平右衛門押しなだめて傍に寄り、「つくづく思ひ廻しますれば、御主君にお別れなされてより、仇を報はんと様々の艱難（かんなん）。木にも萱（かや）にも心を置き、人の譏（そし）り無念をば、じっとこたへてござるからは、酒でも無理に参らずば、これまで命も続きますまい。醒めての上の御分別」と、無理に押さへて三人を、伴ふ一間は善悪の、明りを照らす障子の内、影を隠すや

　月の入（い）る、山科よりは一里半、息を切ったる嫡子力弥、内をすかして正体なき父の寝姿。起こすも人の耳近しと枕元に立寄って、轡（くつわ）に代はる刀の鍔（つば）音、鯉口ちゃんと打ち鳴らせば、「お梅、お竹、お松はおらぬか、水を持て来いよ、水を持て来いよ。誰もおらぬか。庭へ下りて酔ひでも醒ましてこふか。ヤア力弥か、鯉口の音響かせしは急用あってか。密かに、密かに」「ハア。只今御台顔世様より急のお飛脚密事の御状」「外に御口上はなかったか」「敵高師直帰国の願ひ叶ひ、近々本国へ罷り帰る。委細の義はお文との御口上」「よしよし、その方は宿へ帰り、夜の内に迎ひの駕籠。行け行け」はっとためらふ隙もなく、山科さして引っ返す。

　『先づ様子気遣ひ』と状の封じを切る所へ、「大星殿、由良殿、斧九太夫でござる、御意（ぎょい）得ませう」「これは久しや、一年も逢はぬ内、寄ったぞや、寄ったぞや。額のその皺のばしにお出でか、アノこゝな莚（むしろ）破りめが」「イヤ由良殿。大功は細瑾（さいきん）を顧みずと申すが、人の譏（そし）りも構はず遊里の遊び、大功を立つる基、遖（あっぱれ）の大丈夫。末頼もしう存ずる」「ホヲヽこれは堅いは堅いは、石火矢と出かけた。さりとては措かれい措かれい」「イヤア由良之助殿とぼけまい。まこと貴殿の放埓（ほうらつ）は」「敵を討つ術（てだて）と見えるか」「おんでもない事」「忝い。四十に余って色狂ひ、馬鹿者よ、気違ひよと、笑はれうかと思ふたに。敵を討つ術（てだて）とは九太夫殿、嬉しい嬉しい」「スリャそのもとは、主人塩冶の仇を報ずる所存はないか」「気もない事、気もない事。家国を渡す折から、城を枕に討死と云ふたのは、御台様への追従（ついしょう）。時に貴様が、上へ対して朝敵同然と、その場をついと立った。我等は跡にト、しゃちばってゐた。いかゐたわけの。所でしまひは付かず、御墓へ参って切腹と、裏門からこそこそこそ。今この安楽な楽しみするも貴殿のお蔭。昔のよしみは忘れぬ忘れぬ。堅みをやめて砕けをれ砕けをれ」「いか様この九太夫も、昔思へば信太（しのだ）の狐」「クワイ、化け顕して一献酌まうか畜生め」「サア由良殿、久しぶりだお盃」「又頂戴と会所（かいしょ）めくのか」「さしをれ呑むは」「呑みをれさすは」「てうど受けをれ肴をするは」と傍にあり合ふ蛸肴、挟んでずっと、「手を出して、足を戴く蛸肴。忝い」と戴いて喰はんとする手をじっと捕へ、「コレ由良之助殿、明日は主君塩冶判官の御命日。取分け逮夜（たいや）が大切と申すが、見事その肴貴殿は喰ふか」「食べる食べる。但し主君塩冶殿が、蛸になられたといふ便宜（びんぎ）があったか。ヱ愚痴な人ではある。こなたや俺が浪人したは、判官殿が無分別から。スリャ恨みこそあれ精進する気微塵もごあらぬ。お志の肴賞翫（しょうがん）致す」と何気もなく、只一口に味はふ風情。邪智深き九太夫も、呆れて、「さてこの肴では呑めぬ呑めぬ、鶏しめさせ鍋焼きさせん。そのもとも奥へお出。女郎ども歌へ歌へ」「足元もしどろもどろの浮拍子。テレツクテレツクツヽテンテン」「おのれ末社ども、めれんになさで置くべきか」と騒ぎに紛れ、入りにける。始終を見届け鷺坂伴内、二階より下り立ち、「九太夫殿、子細とっくと見届け申した。主の命日に精進さへせぬ根性で、敵討ち存じも寄らず。この通り主人師直へ申し聞け、用心の門を開かせませうかな」「成程、もはや御用心に及ばぬ事」「コレサまだこゝに、刀を忘れて置きました」「ほんに誠に大馬鹿者の証拠。嗜（たしな）みの魂見ましょかな」「見ましょう見ましょう」「さて錆びたりな赤鰯」「猫が居（お）らいで仕合はせでござる」「ハヽヽヽヽヽヽ」「いよいよ本心顕はれ御安堵御安堵。ソレ九太夫が家来迎ひの駕籠」「はっ」と答へて持ち出づる。「サア伴内殿お召しなされ」「先づ、御自分は老体ひらにひらに」「然らば御免」と乗り移る。「イヤ九太殿、承ればこの所に、勘平が女房が勤めてをると聞きました。貴殿には御存じないか。九太夫殿、九太夫殿」と、云へど答へず、『コハ不思議』と、駕籠の簾（すだれ）を引き開くれば、内には手頃の庭の飛石。「コリャどうぢゃ。九太夫は松浦左用姫（まつらさよひめ）をやられた」と見廻すこなたの縁の下より、「伴内殿、伴内殿」「どこでござる」「こゝでござる」「どこでござる」「こゝ」「どこ」「こゝ」「どこ。ヤコレハさて、九太夫殿には結構な所へ御転宅なされましたな」「九太夫が駕籠抜けの計略は、最前力弥が持参せし書簡が心元なし。様子見届け後より知らさん。やはり我等が帰る体（てい）にて、貴殿はその駕籠に引っ添ふて」「合点合点」とうなづき合ひ。駕籠には人のある体（てい）に見せてしづしづ立帰る。

　折に二階へ、勘平が妻のおかるは酔ひざまし、はや廓（さと）なれて吹く風に、うさを晴らして居る所へ。「ちょと行て来るぞや。由良之助ともあらう侍が、大事の刀を忘れて置いた。つゐ取って来るその間に掛物も掛け直し、炉の炭もついでおきゃ。アヽそれそれそれ、こちらの三味線踏み折るまいぞ。これはしたり、九太はもう往（い）なれたさうな」

　父よ母よと泣く声聞けば、妻に鸚鵡（おうむ）のうつせし言の葉。ヱヽ何ぢゃいなおかしゃんせ

辺り見廻し由良之助、釣灯篭の明りを照らし、読む長文は御台より敵の様子細々と、女の文の後や先、まゐらせそろで、はかどらず。よその恋よとうらやましく、おかるは上より見下ろせど、夜目遠目なり字性（じしょう）もおぼろ。思ひ付いたる延鏡、出して写して読み取る文章、下家よりは九太夫が、繰り下ろす文月影に、すかし読むとは、神ならずほどけかゝりしおかるが簪（かんざし）、ばったり落つれば、下にははっと見上げて後ろへ隠す文。縁の下には猶ゑつぼ。上には鏡の影隠し、「由良さんか」「おかるか。そもじはそこに何してぞ」「私ゃお前にもりつぶされ、あんまり辛さに酔ひざまし、風に吹かれて居るわいな」「ムウ、ハテなう。よう風に吹かれてぢゃの。イヤかる、ちと話したい事がある。ガ屋根越しの天の川でこゝからは云はれぬ。ちょっと下りてたもらぬか」「話したいとは頼みたい事かへ」「まあそんなもの」「廻って来やんしょ」「いやいや。段梯子へ下りたらば仲居が見付けて酒にせう、アヽどうせうな。アヽコレコレ、幸ひこゝに九ツ梯子。これをふまへて下りてたも」と小屋根にかければ、「この梯子は勝手が違ふて、ヲヽこは。どうやらこれは危ないもの」「大事ない大事ない、危ない怖いは昔の事。三間づゝまたげても、赤膏薬も要らぬ年配（としばい）」「阿呆云はんすな。船に乗った様で怖いわいな」「道理で船玉様が見える」「ヲヽ覗かんすないな」「洞庭（どうてい）の秋の月様を拝み奉るぢゃ」「イヤモウ、そんなら下りゃせぬぞへ」「下りざ下ろしてやろ」「アレ又悪い事を」「喧しい、生娘（きむすめ）かなんぞの様に。逆縁ながら」と後ろよりぢっと抱き締め抱き下ろし、「何とそもじは御覧じたか」「アイ、いゝえ」「見たであろ、見たであろ」「アイ、何ぢゃやら面白さうな文」「あの、上から皆読んだか」「ヲヽくど」「ア身の上の大事とこそはなりにけり」「何の事ぢゃぞいな」「何の事とはおかる、古いが惚れた、女房になってたもらぬか」「おかんせ、嘘ぢゃ」「サ嘘から出た真（まこと）でなければ根が遂げぬ。おうと云や、おうと云や」「イヤ云ふまい」「なぜ」「お前のは嘘から出た真（まこと）ぢゃない、真（まこと）から出た、みんな嘘」「おかる、請け出さう」「ヱヽ」「嘘でない証拠に、今宵の内に身請けせう」「ムウ、いやわしには」「間夫があるなら添はしてやろ」「そりゃまあほんかへ」「侍冥利。三日なりとも囲ふたらそれからは勝手次第」「ハアヽ嬉しうござんす、と云はしておいて笑をでの」「いや直（すぐ）に亭主に金渡し、今の間に埓（らち）ささう。気遣ひせずと待ってゐや」「そんなら必ず待ってゐるぞへ」「金渡して来る間、どっちへも行きゃるな。女房ぢゃぞ」「それもたった三日」「ソレ合点」「忝うござんす」「ドリャ金渡して来うか」

　世にも因果な者ならわしが身ぢゃ、可愛い男に幾世の思ひ、ヱヽ何ぢゃいなおかしゃんせ、忍び音に鳴く小夜千鳥

「アヽ騒ぐはく。さすがは花の祇園町、入相の鐘は廓の夜明けかな、とはよく云ったものだ、アハヽヽヽヽ。この間に妹かるに逢ひたいもんだが、幸ひの女中。ちょと物が尋ねたい。この所に山崎辺から、かるといふ女が勤めに来てゐる筈だが、お前には御存じないか」「今大事の文を書いてゐるによって、勝手へいて問ふて下さんせ」「サア勝手も何だかごたごたと忙しそふだ。マアそふ云はずと教へてくれろ」「ヱヽ知らぬはいな」「ヱヽすげねえ女だな。マアそふ云はずとちょっと教へてくれろ、これ女中。ヤアわりゃ妹でないか」「ヤア兄様か。恥づかしい所で逢ひました」と顔を隠せば、「苦しうない、苦しうない。関東より戻りがけ、母人に逢って委しく聞いた。夫の為お主の為、よく売られた。出かした出かしたな」「さう思ふて下さんすりゃわしゃ嬉しい。したがまあ悦んで下さんせ、思ひがけなう今宵請け出さるゝ筈」「それは重畳。シテ何人のお世話で」「お前も御存じの、大星由良之助様のお世話で」「何ぢゃ由良之助殿に請け出される。それは下地からの馴染みか」「何のいな。この中（じゅう）より二三度酒の相手。夫があらば添はしてやろ、暇が欲しくば暇やろと、結構過ぎた身請け」「さてはその方を、早野勘平が女房と」「イヱ知らずぢゃぞへ。親夫の恥なれば、明かして何の云ひませう」「ムウすりゃ本心放埓（ほうらつ）者。お主の仇を報ずる所存はないに極ったな」「イヱイヱこれ兄様、あるぞへあるぞへ」「あるとは何が」「高うは云はれぬ。コレかうかう」と囁けば、「ムウすりゃその文を慥かに見たな」「残らず読んだその後で、互ひに見合はす顔と顔。それからぢゃらつき出してつゐ身請けの相談」「アノ、その文残らず読んだ後で」「アイナ」「ムウそれで聞えた。妹、とても遁れぬそちが命、身共にくれよ」と抜打ちにはっしと切れば、「コレ兄様、わしには何誤り。勘平といふ夫もあり、きっと二親あるからはこな様の侭にもなるまい。請け出されて親夫に、逢はうと思ふがわしゃ楽しみ。どんな事でも謝らう、赦して下んせ赦して」と、手を合はすれば、平右衛門、抜身を捨てゝ、「可愛や妹、わりゃ何にも知らぬな。親与市兵衛殿は六月廿九日の夜、人に切られてお果てなされた」「ヤアそれはまあ」「コリャびっくりするなびっくりするな、後にまだ恟りの親玉があるわい。お前が請け出されて添はうと思ふ勘平はな」「兄様、勘平様はへ」「その勘平はな」「勘平様は」「勘平は勘平で、やっぱり勘平だはい」「何の事ぢゃぞいな。ヱヽ聞へた、勘平様にはよい女房様でも出来たのかへ」「ヱヽ、そんな陽気な事ぢゃないはい」「そんなら兄様、勘平様はへ」「サアその勘平は、腹を切って死んだはやい」「ヱヽ」「ヲヽ道理だ道理だ。様子話せば長い事。しまった、こりゃ妹が目を廻した。仲居衆仲居衆、女郎が目を廻した、水を持って来てくれろ。誰もいないか。ヲヽ幸ひの手水鉢。そりゃ水だ。おかるやい、妹やい」「ヲヽお前は兄様」「ヲヽ兄だ、平右衛門だ。顔を見ろ顔を見ろ」「コレ兄様、勘平様はどふさしゃんしたへ」「ヱヽ情けない、まだ尋ぬるか。その勘平はな、友朋輩の面晴れに、腹を切って死んだはやい」「ヤアヤアヤア、それはまあほんかいの。コレのうのう」と取り付いて、「兄様どうせう」「道理だ」「どうせう」「尤もだ」「どうせうどうせう、どうせうぞいな」「ヲヽ道理だ道理だ。様子話せば長い事。お痛はしいは母者人、云ひ出しては泣き、思ひ出しては泣き、娘かるに聞かしたら泣き死にするであらう、必ず云ふてくれなとのお頼み。云ふまいと思へども、とても遁れぬそちが命。その訳は、忠義一途（いちず）に凝り固まった由良之助殿、勘平が女房と知らねば請け出す義理もなし、元来（もとより）色には猶ふけらず。見られた状が一大事、請け出し刺し殺す、思案の底と慥かに見えた。よしさうなうても壁に耳、外より洩れてもその方が科、密書を覗き見たるが誤り、殺さにゃならぬ。人手にかきょより我が手にかけ、大事を知ったる女、妹とて赦されずと、それを功に連判の、数に入ってお供に立たん。小身者の悲しさは人に勝れた心底を、見せねば数には入れられぬ。聞き分けて命をくれ、死んでくれ妹」と、事を分けたる兄の詞。おかるは始終せき上げせき上げ、「便りのないは身の代（しろ）を、役に立てゝの旅立ちか、暇（いとま）乞ひにも見えそなものと、恨んでばっかりをりました。勿体（もったい）ないが父様は非業の死でもお年の上。勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのは、嘸（さぞ）悲しかろ、口惜しかろ。逢ひたかったであらうのに、なぜ逢はせては下さんせぬ。親夫の精進さへ知らぬは私が身の因果、何の生きてをりませう。お手にかゝらば母様がお前をお恨みなされましょ、自害したその跡で、首なりと死骸なりと功に立つなら功にさんせ。さらばでござる兄様」と云ひつゝ刀取り上ぐる。「やれ待て暫し」と留むる人は由良之助。はっと驚く平右衛門。おかるは「放して殺して」と、あせるを押さへて、「ホウ兄弟とも見上げた、疑ひ晴れた。兄は東の供を赦す。妹はながらへて、未来への追善」「サアその追善は冥途の供」と、もぎ取る刀をしっかと持ち添へ、「夫勘平連判には加へしかど、敵一人も討ち取らず、未来で主君に言訳あるまじ。その言訳はコリャこゝに」と、ぐっと突っ込む畳の隙間。下には九太夫肩先縫はれて七転八倒。「それ引き出せ」の、下知より早く平右衛門、朱（あけ）に染んだ骸（からだ）をば無二無三に引きずり出し、「ヒャア九太夫め、ハテよい気味」と引っ立て目通りへ投げ付くれば、起き立たせもせず由良之助、髻（たぶさ）を掴んでぐっと引き寄せ、「獅子身中の虫とは儕（おのれ）が事。我が君より高知を戴き、莫大（ばくだい）の御恩を着ながら、敵師直が犬となって、ある事ない事よう内通ひろいだな。四十余人の者共は、親に別れ子に離れ、一生連れ添ふ女房を君傾城の勤めをさするも、亡君の仇を報じたさ。寝覚めにも現にも、御切腹の折からを思ひ出しては無念の涙、五臓六腑を絞りしぞや。取分け今宵は殿の逮夜（たいや）、口にもろもろの不浄を云ふても、慎みに慎みを重ぬる由良之助に、よう魚肉を突き付けたなア。いやと云はれずおうと云はれぬ胸の苦しさ。三代相恩のお主（しゅう）の逮夜（たいや）に、咽（のんど）を通したその時の心、どの様にあらうと思ふ。五体も一度に脳乱し、四十四の骨々も砕くる様にあったわやい。ヘヱヽ獄卒め魔王め」と、土に摺り付け捻ぢ付けて、無念涙にくれけるが。「それ平右衛門、喰らひ酔うたその客に、加茂川でナ」「如何（いかが）はからひませう」「水雑炊を喰らはせい」「ハア」「行け」「シテコイナ」

★演者・時間の都合により抜き差しがあります